| 夕 景 「雷電、何を呆けている。」 からかうような口調の呼びかけにはっとわれに返った。 見渡す河原の土手は一面のすすきの原。 日中の暑さがようやく薄らぎ、夕暮れの風が肌を心地よく撫でて行く。 柔らかに風にそよぐすすきの穂の間に見え隠れする紺の浴衣姿は、今自分に声をかけた小さな主。肩で黒髪をきりそろえた市松人形のようなその姿が丈高いすすきに埋もれて、海原から現れて手招きするという水妖を思わせる。 夕食後、突然散歩に行くと言い出した主は、自分に供を命じた。 当主とは言えまだ子供、日常の相手は聖が一手に引き受けている。 というか、不器用な自分には幼女の相手など務まらないのだ。 散歩なら俺がついて行ったる、と言いかけた聖を制して、お前が来い、と言った桐子の本意を計りかねながらも、仕方なく気の向くままに歩いて行く主の後に付き従ってここまで来た。 ここで待て、と言われて土手に佇んだ。主はすすきの原をざわざわと鳴らして分け入って行った。 子供のすることは判らん。あんなところを歩いて何が楽しいものか。 煙草を持ってこればよかったな、と思いながらぼんやりと対岸の空を眺めた。 川向うには遠く山並みが連なる。薄青とも薄紅ともつかぬ空を、切れ切れにちぎれた雲が、気づかぬほどの速度でゆるゆると流れて行く。青紫のその雲の下側を、おりしも山の端に沈んで行く夕陽が薔薇色に染めて輝かせている。仰向いて見上げる頭上は既に夕映えの届かぬ淡紫ひといろ。 頭を巡らすと背後の空はもう薄らと藍に沈んで宵の色を湛えている。じきに夕星がひとつ二つと・・・・・ 星見を能くした古の主の面影がふと浮かんだところに、声がかかったのだ。 「お前でも空など見ることがあるのだな。」 桐子はゆっくりと土手を上がってきた。 手に、折り取ったすすきの穂となにやら赤紫の花を携えている。 あの花は・・・・・なんと言ったか。 「ああ、いけないねえ。お前はどうも風流心に欠けているようだ。」 のんびりと縁に肘枕で寝転んだ主の言葉に、顔を背けて気付かれぬようにこっそりと溜息をついた。 一見荒れ放題に見える屋敷の庭には、秋の花が無数に咲いている。花鳥風月一切縁も興味もなかった自分に今更何を求めるのか、主は月見と称して自分を侍らせ酌をさせながら、夕闇に沈む庭に咲く花を次々と指してその名を問うているのである。 「ではあれはなんというね?」次に指されたのは細い茎の先に赤紫の玉をつけた草。 「存じませぬ。」 「そう打てば響くように返事をするものではないよ。せめて少し考えたらどうかね。」 主は相変わらず庭に視線を据えながら盃を口に運んだ。 何と答えればよいのかわからず、沈黙して、床に置かれた盃に瓶子から酒を注ぐ。知らぬものは知らぬのだから、他にどう答えようがあろう。 主は首を傾けてこちらを僅かに見遣り、また庭に視線を戻して微かに笑った。 お前は誰より長く生きているのにどうしてこうもの知らずかねえ。 書物を読むばかりでは生きていることにはならぬよ。生はお前を取り巻く総てのもの、花のひとひら、草のひとすじに宿っているのだ。紙に書かれた文字のなかにあるのではない。 もっと身の回りのことに関心を持ちなさい。花を愛で虫の声を聴きなさい。 行く雲を、流れる水を眺めなさい。 己が現に生きていることをいつも忘れずにゆきなさい。 あの花はねえ・・・・・ 葛、萩、女郎花、藤袴に吾亦紅。 教わった秋の花の名前はそれを教えたひとの面影とともに今も記憶に鮮明で。 土手を登って目の前に戻ってきた桐子は携えた華奢な草を子供びた仕種で掲げてみせた。小さな手の中で細い茎が柔らかな風に吹かれて揺れる。 「雷電、これはなんという花だ?」 ああ、またそれを主から尋ねられるとは。だが今度は答えられる。 「吾亦紅、です。」 なんだ、知っていたか、と少女は右手に掴んだ草を胸の前でゆらゆらとうち振った。 「ご存知でお尋ねでしたか。」 このあいだ鬼同丸から教わった、と桐子はつまらなげに俯き、 「お前が野の花の名前なぞ知っているとは思わなかったぞ。」 と言って踵を返した。 既に陽は沈み、紅色の残照が山際を縁取って刻々と退いて行く。急に暗くなったすすきの海原がさやさやと風にそよいで波立つのを最後に一瞥して、桐子の後に従って歩き出す。 この子供もあの人と同じように、家を背負う重圧に苦しむのだろうか。何もかも捨てて自由になりたいとこぼしながら、家のために短い生を費やすのだろうか。 それとも、それを楽しむほどに強いだろうか。 そして自分はそれを傍で見届けて、なおも生き続けて行く。 自分をひととして扱った古の主の思い出は、深く胸に抱えて誰にも見せないで。 |
