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夢
内裏は いまや静まり返っていた。
先ほどまでの騒ぎが嘘のように。
もう生きている者は誰もいない、この御簾の向こうで息を殺している者の他には。
歩み寄って、もの静かな口調で呼びかける。
「主上。」
御簾の内側で息を呑む気配がする。
「我があるじに成り代わり参上いたしました。」
御簾を撥ね上げる。闇の中、がくがくと震えて縮こまっている男を見下したその眼が白く光る。
「・・・何か仰せられましたか。」
這って逃げようとするその襟首を掴み、眼の高さまで引きずり立たせる。
「我があるじが何をいたしましたか。」
恐怖に慄きいたずらに口を開閉する高貴な相手の顎を掴み、ゆっくりと力を込める。ぐずりと骨の砕ける感触に、光る眼を微かに眇める。
「何とか仰せられませ。」
顎を掴んだ左手はそのままに、右手を頭の後ろに廻し髪を掴む。何も聞こえない。何も見えない。自分はもう何も感じない。ただ心を焦がすこの冷たい焔だけが生を捨てた自分を駆り立てる。
「わたくしをご存知であられますか。」
ゆっくり首を捻じる。射すくめられたように動けぬままの貴人の首が、ごきりと音を立てて折れた。
「わたくしが何者かお尋ねにはなりませぬのか。」
事切れた貴人の首を、構わず捻じりつづける。半開きになったその口からどろりと鮮やかに紅い血が溢れ出る。皮膚が裂け、筋が切れる。首を失った体が、足元にどさりと倒れる。
捻じ切った生首を下げて、虚ろに周囲を見回す。これで本当に誰も居なくなった。視界に靄がかかったように、何もかもが朧に形を崩しはじめる。
首を目の前に掲げて眺める。新しい鞠を貰った童のように。
「他愛のないことよ。」
怖れに見開かれたままの死者の虚ろな両目を半眼で見据え、首を傾けて、血の溢れ出た唇にゆっくりと口づける。
「これを我があるじにお渡しくださりませ。」
あなたの怨みを晴らすため、仇なした者どもの血筋を全てこの手で絶やしましょう。
足元に倒れ伏した首の無い体を見下ろす。
「しかしこれが無うては不都合でござりますなあ。」
掲げた生首を、無造作に持ち主の死体の上に落とす。
「それ、お返ししましょうほどに。お持ちなさりませ・・・あの世まで。」
貴人の首は、ぼたり、と重い音をたてて床に転がり、血の痕を引く。
最早生きて動くものは何一つ無い。そこここに倒れ伏した女房、童、殿上人たち。
まるで壊れた人形のように散らばるそれらを無造作に踏みつけ、外に出る。雲の低く垂れ込めた夜空を見上げて薄く笑う。
一つ二つ、稲妻が闇を裂いて閃き始める。静まり返った広大な内裏の方々で、やがて火の手が上がる。
まだ始まったばかりだ。あるじに仇なした者どもの子々孫々、係累縁者、家の子郎党に至るまで全て殺し尽くして根絶やしに・・・
次第に勢いを増す火勢が心地よい。広壮な館も、贅を尽くした調度も、煌びやかな衣装も、全てがお前達の紅蓮の柩になる。我があるじの身の上に比べ、その何と豪奢なことよ。
・・・だが燃えるべきものが尽きれば焔は消える。では、全てを絶やしたとき、自分のこの怨みの焔は消えるのか?
(私はそれから何処へ行くのだろう)
一瞬背筋をよぎった寒気は、しかし梁の焼け落ちる轟音にかき消された・・・

どこからか伝わってきた不穏な波動に、書物から顔をあげ、耳をすませた。とうに夜半を過ぎ、家人もすべて寝静まっている。
「またかの・・・」
ひとり呟いて座を立った。燭台を持ち廊下へ出る。まっすぐに向かった先は最近抱えた従者の寝所。
静かに板戸を引きあけた。闇の中、褥に体を丸めて呻いている、微かに白く光る姿。
「高遠。」
静かに声をかける。
「高遠。」
闇の中、暖かい褥に横たわる自分に気づいた。ああ、昔の夢を見ていたのだ。
初めて内裏を襲ったときの夢。
腕の中で滑らかな肢体が動いた。甘い声が耳元で囁いた。
「雷電さま、お寝みになられましたのか」
答える代りに抱いた腕に力を込め、芳しい首筋に顔を埋める。初めて抱いた女の躰の柔らかな弾力に、ぞくり、と躰の奥で何かが再び湧き起こる。耳元を掠れた囁きが吐息とともにかすめる。
「どこまでもお伴をいたします。」
愚かな女よ。私について来たところで、待っているのは永遠の薄闇であるのに。
「私と共に堕ちると言うか、如月よ。」
首筋から、つ、と唇を滑らせ冷たい耳朶を甘噛みして、耳元で密やかに囁く。
あ・・・と低く喘いで、女が細い腕を背に廻してくる。
「百年も千年もお側に・・・」
私の初めての情人よ。お前は己の言っていることの本当の意味が解っていないのだ。
炎上する館を遠望していた。憐れな女よ、あの焔の中からお前を救い出して連れてゆくのは簡単だ。だが、お前にもう用はない。あれは閨の睦言、お前を連れてゆく気は元よりなかったのだ。
怨むがよい。憎むがよい。だが、父と共に黄泉路を辿ることこそが幸せなのだとお前には解っているだろうか。
私はいつまでも独りでこの薄闇の中を歩いてゆこう・・・
低い嗤いが、知らず喉から漏れ出た。誰に対する憐れみか、誰に対する嘲りか。
なおも室内に拡がる異様な波動に溜息をつき、白く光を帯びて印を顕しかけた鬼の額に手を置いて、今度はその心に直接呼びかける。
「高遠や。」
不意に辺りが清浄な気に満たされる。
蟠る薄闇の霧の中から一気に引き上げられたかのように。
は、と見開いた眼に映ったのはゆらゆらと揺れる燭台の灯りと、覗き込む明るい一対の眸。一瞬混乱に陥った意識に、静かな声が語りかける。
「また夢を見ていたのだな。」
ああそうか。あれは遠い日の幻。断ち切った筈の過去の罪だった・・・
だがそれは何処までも、甘美な色合いを湛えて、こうして自分を追ってくる。
両手で顔を覆った。穢れきった自分を恥じた。ああ、私を見ないで下さい。自分にはこうして保護される値打ちなど無いのだ。
それなのにこのひとは。
肩口を覆うように夜着を掛けなおされて、息を殺す。優しい手が宥めるように夜着の上から背を擦る。
「もうお前が恥じることは何もないのだよ。」
あなたの優しさが私を惨めにする。
「お前は常に己の最善を尽くしてきたのだ。」
それが今となっては私を苦しめる。
この手を汚した幾百の咎無きものたちの血。果てしなく続く悪夢から目を醒ましたはずなのに、怨嗟と憎悪の泥沼から救い上げて貰ったはずなのに、こうして殺戮に酔う己がどこか深くに残っていて、折々に浮かび上がり私を過去へと誘うのだ。
眦から溢れる熱いものに、どうかこのひとが気付きませんように。
「もう一度眠りなさい。今度は夢など見ないようにしてやろう。」
額に手を置いて低い声で呪を唱える主の声を聞きながら、抗うことなく、再び意識は眠りの淵に引き込まれた・・・
(私は何処へ行くのだろう)
「ユミちゃん、ユミちゃん?」
不安を帯びて呼びかける柔らかなテノールに不意に覚醒した。聖の顔が心配そうに真上から覗き込んでいる。
「怖い夢でもみたんか?」
そっと胸に抱くように頭を持ち上げられた。暖かな日向の匂い。仄かな石鹸の匂いは、洗濯でもしていたものか。
静かにまた下ろされる。頭の下に差し入れられた氷枕のなかで氷がぐるりと崩れ動く。その冷たさが心地よく、状況のわからぬままに、またとろりと瞼が落ちかける。
「寝なおすなら、飯食うてからにせいや、今持ってくるさかい。飯食わんと治る怪我も治らんで。」
そうだ、封じで怪我をして・・・どうやって帰り着いたのかもよく憶えていない。
思い出した途端、つきつきと体中が痛み始める。
「心配したでー、ドア開けるなり玄関でぶっ倒れてからに。廊下もエレベーターも血だらけやったし。人に気付かれんうちに掃除せなあかんて、えらいめに逢うたわ。」
無理に軽く装った口調に潜むあからさまな安堵の気配に、胸の塞がる思いがする。
永遠に独りで歩くことこそが自分に課せられた罰なのだと覚悟を定めた時に、思いがけず与えられた伴侶よ。お前はいつもそうして私を気遣い、受け容れ、赦し続ける。
ああ、感謝します。あなたは全てを見通しておられたのだ。私を拾ったあの日から。
「心配させて済まなかった。」
口をついて出た言葉に、背を向けかけていた聖はふいと振り返り、光の滲み出るような笑顔を見せた。
「済まん思うたら、さっさと治りや。怖い夢見て泣いとったらあかんで。」
もう怖くはないよ。
怖くはない、お前が傍にいてくれるなら。
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