「高遠」
「わたしをその名で呼ぶな!」
陰陽師の老いて垂れ下がった眉の下の眼が、かすかに笑ったような気がした。
次の瞬間、足元から渦を巻いて全身を包もうとした気の流れを危うく飛びすさって避ける。
肩口から額に向けて何かが掠めた。生暖かいものが片目に流れ込んで視界がぼやけた。切り裂かれた肩から先の感覚が消え失せた。
ええ口惜しや。最早これまでか。
しかしその後の攻撃が来ない。


「高遠。」
何故ただそれだけの言葉がこんなにもわたしを動揺させるのか。単なる死者の名前ではないか。
・・・・はるか昔に死んだ愚直な幼い者の名前。
「その名で呼ぶなと言っている!!」
歩み寄ろうとする陰陽師に最後の一撃を食らわそうと体に残る気をすべて手元に集中する。
眩暈がして天地が不意に逆転した。


ふと気がつけばひとり土塀に凭れていた。回りにはもう何の気配もない。どのくらい気を失っていたものかもわからない。
何を考えているのだろう、あの男は。鬼の調伏が生業だろうに。何故わたしを調伏せずに毎度毎度放って去ってしまうのか。
陰陽師があらわれた頃降り始めた雨は、いつのまにか雪になっていた。


じっとりと濡れた髪が衣の背に張り付いて余計に重い。
痺れた手を無理に擡げて、霞む眼を擦る。夜目にも白いその手の指に、ねっとりと絡み付いたのは己の赤黒い血。ざわり、と体の底でなにかが動く。
あな浅ましや。己自身の血にさえ鬼畜の血が騒ぐとは。
傍らの塀にすがって立ち上がる。夜明けまでにこの姿を何処かに隠さねば。


足を引き摺るようにして塀に沿って歩く。なおも降りしきる雪に覆われて一面に白い足元に、額から一筋二筋下がった髪を伝って点々と落ち続ける己の黒い血の色。それに導かれるように足元だけを見て、何処へともなく歩きつづける。
・・・・・・わたしはどこかにたどり着けるだろうか。


不意に突風が額を打った。血と雪に塗れて重いはずの髪が一気に後ろに靡く。


耳の奥で懐かしい声が呼んだ。
は、と歩みを停めて耳を澄ませる。
(高遠)
この声、この口調。今この姿で、振り向いてはならない。
(高遠)

聞こえませぬよ。もうその名はわたくしの名ではございませぬ。
かつてわたくしにその名を捨てさせたあなたさまが、なぜ今になってかように優しい声でその名をまた呼ばれるのか。


・・・・つまらぬ空耳よ、と頭を振る。頭痛と眩暈が激しくなる。ええ、何故ひとおもいに封じて行かぬものか、あの怠け陰陽師め。
またしてもふつふつと沸き上がってくる苛立ちを力に、歩を進めようとした。
くい、と後ろから何かが髪を引いた。


(高遠や)


あなたさまの命で、あなたさまを喰らって、鬼になったこのわたくしに、今更何の御用がおありです?
黄泉路からお戻りになられたか。わたくしを連れに参られたか。
なれどわたくしにはもう多分ゆくところが無い。
お供はいたしかねます。さればせめてこの浅ましき姿をご覧にならないで下さりませ。
内気で従順だった土師高遠だけを憶えておいて下さりませ。


(高遠や)


なおも掴んで放されない髪に、恐る恐る後ろを振り向く。
辿る視線の先には塀の向こうから枝を差し出したひともとの紅梅。
咲き掛けた花の上に降りしきる雪が積もって重たげに下がる、その枝に血まみれの髪の一束が絡み付いて引かれていたのだった。
ああそうとも。このわたしとしたことが、手傷を負うて惑乱したと見える。
今更誰が迎えになど来てくれるものか。
まだ自由がきく方の手を差し伸べて、髪の絡んだ枝を折り取った。


                  


東風吹かば 匂ひ起こせよ・・・・・


ゆらゆらと手折った枝を打ち振って雪を落とす。咲き初めた花びらが夜目にも紅い。
あなたさまの愛した梅は、言い付け通り春を忘れず咲くけれど。
あなたさまに置き去りにされたわたくしは、言い付けに従ったわたくしは、独りきりで何処へ行けばよいのでしょう。


じきに東の空が白み始めよう。
陽があたれば淡雪は形も無く融け去るだろう。


そしてわたしだけが闇の中に取り残される。





BIBLIOHOLICA 破魔矢さまから、本館キリ番 99999HITで頂きました。

イメージは?と希望を聞いて下さったので、こんな感じで〜と駄文を書き散らかして御覧頂いたのです。
この駄文からこんな美しいイラストが出て来るんだから素晴らしい!

破魔矢さま、どうもありがとうございました。