睡蓮の池のほとりで





(えーと)
ここは一体何処だろう?
やたらに広いこの屋敷の庭。父に連れられて来てこの家の当主に挨拶させられた後、延々と続く父と当主の談笑にすっかり退屈して、遊びに出たい、とおずおずと申し出た。
この部屋から見えないところに行かないように、と釘をさされて出してもらったのはいいけれど。
植え込みの蔭を覗いたり、咲いてる花に気を取られたりして歩き回る内にすっかり迷ってしまった。
どちらを向いてもおなじような建屋に同じような土塀。こんな大きな屋敷なのに、縁から覗き込んでも何処も森閑として人の気配がない。


ここだ、と曲がった植え込みの向こうには、白い睡蓮の一面に咲く池がひろがっていた。
がっかりして思わずしゃがみこんでしまった。
とろりと眠くなるような、静かな薄曇りの昼下がり。波一つ無い静かな水面に白い花が無数に浮かび、心なしかぼうっと光っているように見える。
異界に迷い込んだような気がして、心細さがこみ上げて泣きたくなった。
(おかあさん、)
いや、母はもういないのだった。こんな花のたくさん咲いている綺麗なところに行ったのだと兄が教えてくれたっけ。
(おにいちゃん、)
頼りの兄はうちに残っている。お父さんの言うことをよく聞いていい子にしているのだよ、と、今朝うちを出るとき兄は優しい目をして自分の頭を撫でた。
ここがそもそも何処なのかさえわからない。あれから父と供の者と、車に乗って飛行機に乗ってまた車に乗って。とてもとおくまで来たことだけはわかる。
(ぼく、このままここでまいごになって、ずっとおうちにかえれなくなっちゃうのかな。)
以前母に読んでもらった恐竜のでてくるお話を思い出した。探検隊が恐竜のたくさんいるところに閉じ込められて出られなくなるお話だった。
・・・・・ここには恐竜はいないだろうけれど。
(おかあさん・・・・)
保護者の元に帰れず永遠にさまよう自分を想像して涙眼になったとき、背後に強烈な気を感じた。


一瞬にして総毛立った。
(こわい!)
とてつもなく強く異質なもののいる気配。
恐る恐る振り返ると、そこにはきちんと背広を着た背の高い男が自分を見下ろしていた。
漆黒の髪、色白で整った顔立ち。子供の目にもそれは美しい若い男だったが、しかし、
(こわい!)
この人はひとじゃない。なぜそうおもうのかわからないけれどひとじゃない。
ひとりぼっちはこわいけれど、この人はもっとこわい。
「どうされましたか。」
美しい貌の異形は、穏やかな低い声で尋ねた。


(えーとえーと、さいしょはなんだっけ、はやくおもいださなきゃ)
口も利けずに冷や汗を流しながら、必死でこの間教わったばかりの退魔法を思い出そうとしている自分を、相手は微かに眉を顰めて眺めた。怖くて怖くて目を合わせてはいけないと思いつつも何かに縛られたように一旦合った目線をもう逸らせない。
と、異形はふと眼を細め、おもむろに引き結んでいた口元をゆるめた。
「御景のご子息ですね。」
ここは応接間からかなり離れています。なぜお一人で?
ふっと刺すような異形の気が薄れた。大きな躰が屈んできて、強い腕が竦む自分を抱き上げた。怖さのあまり鳥肌の立った手足を眺め、異形はくつくつと肩を震わせて笑った。
「私が怖いですか。聡い方だ。」


全く見覚えの無いところを、自分を抱いた異形はすたすたと歩いてゆく。さくさくと足元で鳴る白砂の音さえなにかこの世のものではないような気がしてますます不安が募る。
(きっとこのままどこかにつれていかれてたべられちゃうんだ。おとうさんのいうこときかなかったからばちがあたったんだ。ああ、おとうさん、おにいちゃん、ごめんなさい。おうちにかえれたらなんでもいうことききます・・・・)
不意に目の前に、ここに来た時に入った覚えのある玄関が現れた。


廊下の奥から、さっき自分たちを出迎えたこの家の家人が駆け出してきた。
「三吾さま、一体どちらに!?」
異形は微かに笑って自分を三和土に降ろし、家人に、池の端で迷っておられた、眼を放さぬように、と言った。
「志島さん、ありがとうございました。」
家人の言葉に僅かに頷き、美しい異形はすいと玄関を出て行った。


また長い廊下を通って先ほど通された応接間に連れ帰られる。父がほっとした顔で迎えてくれた。
「いなくなったので心配したぞ。いったい何処に迷い込んでいたのだ?」
当主が尋ねるように家人を見やる。家人は、志島さんが庭で迷っておられるのを見つけてお連れしました、と当主に報告した。


家人が退出したあとで、当主は穏やかに尋ねた。
「志島にお会いになったのか。あれをどう思われたかな。」
「こわかった、です。」
考える暇もなく口から勝手に言葉が出た。いけない。この家の人なのだし。迷っていたのをたすけてくれたのだし。
当主は少し驚いた顔をした。
「この齢であれがおわかりになったか。これは先が楽しみですな。」家人でさえ、あれの正体を見抜くことのできるものはあまりおりませんでな、と、当主と父がまた意味のわからぬ話を始める。
聞いているのは退屈だけれど、もう外に出る気はしない。あんなこわいものがいるお庭でまた迷いたくないもの。
・・・・・・でも、こわかったけれど、優しかった。抱き上げられたその腕は強くて暖かかった。
あれは一体なんだったのだろう?
父の傍らにぴったり寄り添って坐っておとなしくしているうちに瞼が重くなってきた。
父の大きな体に凭れてうとうとと眠り込んだ。


もう一度睡蓮の池のほとりを歩く夢を見た。
もう一度逢いたいと思ったあの美しい姿は、二度と現われなかった。