帰宅すると、屋敷の中に何やら慌ただしい空気が漂っていた。家人が心なしかおどおどした様子で出迎える。
後ろで鬼同丸がかしかしと頭を掻いた。
「何ぞあったんかなあ。」
「さて、な。」どうした、と尋ねると、隆仁が行方知れずだという答え。
世話係が目を離した僅かな隙に、自室を抜け出し姿が見えなくなったのだという。
「家からは出ていないのだろう。そのうちどこかから出てくる。案ずるな。」
俺、ユミちゃんの様子見てくるわ、と鬼同丸が離れの方へ行くのを目で追い、自分も少し休もうと踵を返しかけたとき、鬼同丸が視界の中に小走りに戻ってきて手招きをした。



「何だ?」何も言わずに先に立って歩く相手に少し苛立って問い掛けた。
鬼同丸は、しっ、と制し、静かに障子を開けて中を示した。



出かけるときに覗いたそのままに、血の気の失せた貌をして横たわる雷電。
その胸に半ば抱かれるようにして、幼い我子が居た。
二人とも穏やかな顔をして眠っている。口元に微かに笑みさえ浮かべて。
ついてきた家人が息を呑む。「何故こんな所に。」
「なんや親子みたいやなあ。」と暢気な口調で覗き込む鬼同丸に、一瞬自分でも正体のわからない感情が波立った。
「部屋に運べ。二人とも起こさぬようにな。」



自室に引き取って、自分の動揺の意味を考える。
ああそうだ、あの日も私はこうしてこの部屋で、この机の前に坐っていた・・・
ぼんやりと文机に肘をつく。過ぎた時間の光景が目の前に甦る。



「雷電、居るか。」
癇を立てて呼ばわった声に、間もなく静かな応えが障子の外であった。
「お呼びでしたか。」


「入れ。」
静かに障子を後ろ手に閉めて入口に畏まった大きな男の目の前に、手にした書状を投げつける。
「これを見たか?」
相手はそれをゆっくりと拾い上げ、無表情に目を通した。
「いえ、初めて拝見しますが。」


「そういう問題ではない!」
思わず声がまた大きくなる。
「お前は知っていたのだろう?何故私に一言知らせない。」
雷電は、手に取った釣書を静かに膝の前の床に置き直した。
「もうそろそろ跡継ぎを、と側近の方々が相談しておられるのは知っておりましたが。」


神島家当主の座についてもう10年を超える。10歳の少女ははたちを過ぎた。同じ年頃の娘は皆嫁ぎ先が決まる頃なのは自分も心得てはいる。
しかし。
「下らぬな、夫など。家の跡継ぎさえできれば後は用の無い者だ。」
なのに一生縛られなければならぬとは、何と鬱陶しい。お前はどう思う?
いつもと変わらぬ感情の知れない貌で耳を傾けていた雷電は、思った通りの常識的な答えを返してきた。
「神島家の跡継ぎのためには、御夫君はやはり必要でしょう。」


ああ、他の答えが返ってくると期待していたわけではない。頭の固い、他人に関心のないお前が言いそうなことなど、聞くまでもなかったのは確かだ。
それでも言わずにはいられなかった。
「子供の父親ならば、お前でも良いのだぞ。」
万感の想いを一言に篭めて。
美しい鬼は、沈黙して面を伏せた。


お前を困らせるつもりなどない。
「ふふ、冗談だ。」
無言で頭を下げた相手から目を逸らし、文机に向き直る。
「夫など誰でも良い。適当に見繕わせて迎えることにしよう。」誰でも同じだ、お前でないのならば。
最後の一言は胸のうちだけに押し隠して、出て行くよう手で合図をした。
来たとき同様静かに出て行く気配を背中で感じて、袂をきつく握り締める。
冗談だ、といった私の言葉を、お前は信じただろうか。



想い出は、からい疼きをもって胸を満たす。
臆病だったのはこの私だ。
鬼と番って子を設ける、そのことに躊躇いがあった。
そしてそれ以上に、お前に拒まれることが怖かった。
いつも従順でありながら、決して本心を見せない男よ。私が命じれば、お前は私を抱いただろう。だが、躰だけの繋がりは自分の矜持が許さなかった。たとえひとときでも、お前の心が欲しかった・・・そして、その自信がなかった。
お前が唯一心を許し愛情を注ぐ鬼同丸が妬ましい。支え合って千年のときを生きてきたお前たちが互いにかけがえのない存在であるのは当然だ。だが・・・・
何故それが私では無かったのか。
私が遅く生まれたのは、私の所為ではない。
お前のためなら、鬼にもなってみせようものを。


・・・お前が胸に抱いて眠っていたその子は、私にとってはこのつまらない家を継がせるための澱んだ血の器に過ぎない。だがそれがもし、お前の子であったなら。
私は何よりもその子を愛しただろうに。



苦いものがとめどなく溢れ出すのをもう抑える気にもなれなかった。
その夜のうちに、二人の鬼を別宅に移させ、離れを片付けさせた。
何者かの居た痕跡すら残さぬように。



「隆仁さま、隆仁さま!」
小さな足音が追われるように走ってくる。障子がばしりと開いて、幼い息子が駆け込んできた。
「何だ、騒々しい。」咎める自分に、子供は必死の面持ちで口を開いた。
「おじちゃんが、いなくなっちゃった。」
「何のことだ?」何のことを言っているのか、わかりすぎるくらいよくわかっていながら、敢えて知らぬふりをする。いつもは素直な子供が、珍しく言い募る。
「あそこのおへやにいたんだ、きのうも、おとついも。」うごけないっていってたのに、ながいおはなししてくれたのに。
もういないんだ。
「そのような者は居なかった。お前は夢でも見たのだろう。」いつもなら、聞き分けの無い振る舞いを叱りつけるところだが、何故かその気になれなかった。珍しいくらい優しい口調で息子に接している自分に気づき、内心少し驚く。
そう、お前の気持ちはよくわかる。
私たちはおいていかれたのだよ。あれは一緒に歩んではくれないのだ。



私の美しい鬼よ。
あの一言は本気だった。
・・・それがお前にはわかっただろうか。