The play of sunlight through the trees.
未だ暑さの残る、昭和二十三年初秋。 日比谷のGHQ本部を出てから、弓生は英辞典を無くしていた事に気付いた。 多少の翻訳は楽に出来るが、新法――法律用語が絡んでくるとそうはいかない。農地改革に到っては『本家』の必要最低限の資金をまかなっている土地さえ奪われかねない為、GHQの方針を基礎から勉強しなおす必要があった。 本家という特殊体質の中、最低限の語学教育すら満足でないこの時期に語学を自在に操れる者は、彼を置いて他にいなかったのである。 あたかもすり抜けるように、歴史の闇中を生き抜いてきた土御門の裏『本家』も、敗戦後の米国支配による影響を免れる事は出来なかった。何の優遇措置も無い。 アメリカという他文化圏の人々にとっては、術界も不可思議な伝統を受け継いでいるようにしか見えなかったのであろう。為政者とはいえ、同じ文化圏の人間が『本家』に見せた根本的な恐れ―――それは民族の根底に根付く本能的な物であるのだろう―――が、皮肉にも『本家』が存続する為に必要不可欠であったのだと、弓生は千年にもなる生の中、初めて知ったのだった。 (神田に行く以外、他に売っている所も無い…な) 今だ夏の暑さを残しつつ、秋の息吹を含んだ風と日差しに目を細めて呟くと、弓生は市電の駅へと足を向けた。 市電を降りると、強い日差しが弓生の目を射った。くら、と眩暈を覚えて立ち止まる。 嫌な気がして、洗いざらしのシャツの首筋に手をやると、残暑ゆえだけではなくうっすらと汗をかいていた。頭も重い。 最近外に出ることも出来なかった為、伸びて目に落ちかかる髪をかきあげて、溜息をついた。そう言えば眼鏡も壊れたまま買いなおしていないと、思い出す。 (…まだ、駄目か) 熱がぶり返しているのかもしれなかった。ここ2ヶ月、どうにも体調が戻らない。 彼が兵役を命ぜられ、満州へ赴いたのが昭和十九年正月のこと。連合軍との正面衝突を避け得なかったハルピン(彼は通称731部隊に所属していた)での負傷と、敗戦直後の混乱、軍部からの疑念……最悪とも言える要因が重なり、満足な治療も受けられなかったのだ。普通の身体であれば、とうに亡き者となっていた。 そして、彼が『本家』の使役鬼でなければ。また中国語を操れなければ、とうに処刑されていたのだろう。 (少し涼んだほうが良い………) 自覚すると、途端に身体がだるく感じる。書店内であれば涼めるだろうと、軽く頭を振って歩き出した。 日本大学、明治大学の二校に近い千代田区神田は、以前から学生街、ことに書店街として名を馳せている一角である。数々の印刷所や出版社、古書店等が軒を連ねており、手に入らない書籍のほうが少ないであろう。弓生にとっても、馴染みの街となっている。 街の角に、書店「和泉」はあった。 明治期より細々と続く、雑居ビルの谷間に在る二階建て。震災も耐えぬいたというその洋館は、小さいながらも古老の如き風格を漂わせていた。 弓生はからん、と半地下になっているドアを開けた。 古書特有の黴臭さと、吹き抜けの天井で緩やかに回る扇風機の涼風に、ほっと息をつく。往来でふらつくことだけは、免れた。 「今日は、何をご所望で」 まるでこの洋館そのもののような印象を受ける老店主が、見知った顔に問うた。 ここにはもう何度も足を運んでいる。変わらない外見――弓生が異形である事を、この店主は何とも思っていないようだった。 「英辞典を。……できれば、法学の専門用語が載っているものだと、ありがたいが」 ああ、それならと、店主はにこりともせずに奥の扉、恐らく書庫であろう、昼間というのに薄暗い一角へ消える。それを見やってから、窓際に置かれたアンティーク机に腰を下ろして、二度目の吐息をついた。 少しずつ、身体が重くなるように感じる。らしくもなく机に伏して、横目で書棚を見やった。 異形と化す以前は体が弱く、この程度の事はよくあったものだ。その度にこうして―――書斎で何気なく読書をして、涼んでいたのではなかったか。外に出られない時、兄弟子が新たな書を持ってきてくれることが、ささやかな喜びでは、なかったか。 ふと、物悲しげな笑みを浮かべる。……思っても、詮無いことだ、と。 大学にほど近い為、何かと長居する者が多いこの店に用意された珈琲と共に、錠剤を流しこんだ。 店内には、ほの暗い…闇溜まりがいくつもできている。立ち並ぶビルに遮られて、嵌め殺しの窓に残暑の日差しは届かないのだ。 こんなところからは、ひょっこり悪戯な連中が顔を覗かせるもの。 「本がお好きなんですねェ」 灯しておいた洋灯が揺れて、ことんと、机の上に何かを置いた気配がした。 壁一面の本棚に視線をさ迷わせていた弓生は、机に長く伸びた女の影を認めてゆるりと振りかえった。 色白、結った黒髪が艶やかな女性であった。ブラウスと黒のタイトスカートが、ほっそりした身体に合っている。 弓生より外見上は幾つか年上であろうその女性は、すい、と足音も無く近づいて、いつのまにか机に置かれていた辞典を指差した。 「そちらで、よろしいンでしょう?」 体調が優れないこともあったが、突然現れた女性に、幾分反応がおくれる。 「ああ……はい。…貴女は……?」 この店に、店員はいない。本の場所を知っているのは、あの老店主だけの筈だった。 弓生の言葉使いに、一瞬面食らったように驚いて見せた彼女は、しかし不意にころころと笑い出した。心底、可笑しいというように。 「覚えて、いらっしゃらないかもしれませんねェ。…ホラ、あの芝居小屋近くの…蒼一座のことで、お会いしたでしょう」 止まらないというように口元を押さえながら、近くにあった椅子に座る。その動作は流麗で、何か、記憶に繋る美しさだった。 つと、その面影が思い出される。 「……………萩の…」 萩の、姐さん。聖が確か、そう呼んだ。蒼一座を探していた彼らに、櫛を授けた樹霊。あの時は、小紋の着物姿の。 「覚えていて下さったンですか。……お久しぶりですねェ」 しなやかさと強さの、美しさがそこにあった。 「………何故、…ここに、」 「えェ、逃げさせて下さった御仁が居りましてね。お蔭様で…」 つい、と弓生へ辞典を差し出す。それを素直に受けとって、彼はぱらりと頁を繰った。 「だが、浅草は……」 「3月の空襲の後にねぇ、私が居た庭の……家主が、あたしを此方へ移したんですよ。どうせ全部無くなっちまうなら、お前だけでも…って、言ってねェ」 終戦のその年。東京大空襲により、浅草一帯は正に煉獄と化した。表すにも、恐ろしい。 永き時を生き、様々な戦を見つめてきた彼ら異形にとっても、あれほど凄まじい光景は今までになかった。……殺す側、相対するべき敵が見えない。そんな、闘いなのだから。 自らに架せられた、『異形』という言葉の意味は、一体何なのか。 人が行えない事をする、それが異形たる者ではなかったのか。 ……これでは、人そのものこそが。 弓生は、萩の姐につと浮かんだ哀しみを捉えて、僅かに目を背けた。 「…それで、無事だったのか。…その、家主は…」 「死んじまいましたよ。どこか、私の知らないところでねェ…。でもね、亡骸だけは、側にありますけれど」 「……お前の、下に?」 「ええ。」 萩は弓生の珈琲を少し口に含んで、苦い、と笑ってみせる。 あたしは墓標なんですよと、呟いた。 「死んじまえば、それっきりって奴ばかりでしたのにねぇ。あたしの下になんて埋めてくれるから…あたしはあの家主から逃れられなくなっちまいましたよ」 「残される者の悼みも知らず…か」 その家主が、萩に託したものに思いを馳せば、きりがない。弓生もまたそうして、死に行く者達の架す重い望を、背負いつづけて生きている。 彼女が、そうしているように。 「ねぇ、鬼の…」 「…今の名は弓生だ」 「…弓生さん。貴方、何を見ていらっしゃいました?この戦の中で」 そういえば、と、思う。彼女の生きる世界は、あの庭あたりだけだったのだ。彼が見てきた海の向こうの光景など、知る筈も無い。 ふと、少しずつ頭の重みが取れてくるように感じた。心の枷が、緩む音と共に。 「…死を、見た。それと、知らなかった様々な光景を」 陰影を背負った光景ばかりではない。大陸でなければ知ることの出来なかったこと、今まで見ることの叶わなかったことが沢山ある。 決して、後悔と義務感だけで仕事をしていたわけではなかった。 「……お教え下さいません?永く生きてきた貴方が、初めて得たものを。死しか、知ることが出来なかったあたしに……」 少し首を傾けて、萩の姐が弓生を覗きこんだ。その仕草が少女のようで、思わず笑みがこぼれてしまう。 薬の所為ばかりではなかろう、先ほどまでのだるさも和らいでいた。書店の涼気が、心地よいと思う。 半分ほどになった珈琲に口をつけると、萩の香が幽かに揺らいだ。 「……では、何処から話そうか」 ―了― |
瑠璃亭の橘巫女都さまから、素晴らしい物語を頂きました。
蓮が逆立ちしても書けない歴史の香り高い美しいSSです。
しかも!茨のサブキャラ道(通称「もののけ道」)を歩む当館にまたまた新たなサブキャラが!!
橘様、どうもありがとうございました。