永遠のお伽話






一旦消え失せたと見えた妖気が、背を向けた途端、倍の勢いで噴き上がったのに気づいたのは弓生だけだった。



咄嗟に振り向き、後ろに桐子を庇って右腕に白銀の気を纏う。
放とうとしたその刹那、一瞬早く、まっしぐらに襲いかかってきた妖気の刃が、腹を真一文字に切り裂いた。
灼け付くような衝撃とともに生暖かい塊が腹壁の裂け目から溢れ出す感覚に、膝の力が抜ける。砕けるように地面に這いつくばった。白濁する視界に、どろどろとしたたり落ちる己のどす黒い血が映った。
(聖、後は頼む・・・)
地面がぐらりと傾き、天地が逆さまになった。周囲の物音が急速に遠のいていった。



真っ暗な屋敷の中を手探りで歩いていた。
誰かを捜しているのに、それが誰か想い出せない。
板戸を引き、襖を開け。延々と続く廊下に沿って、重い足を引きずりながら歩き続ける。
不意に明るい部屋に出た、と思った瞬間、横たわって天井を見ている自分に気が付いた。障子を通して射し込む淡い光は、傾きかけた午後の陽の色をしている。
ここは・・・神島邸の離れ、怪我をすると大抵担ぎ込まれる馴染みの場所であることに気付き、一気に記憶が押し寄せる。桐子は、聖は・・・無事だったろうか?
身体を起こそうとして腹部に走る激痛に喘ぐ。視界が仄白く光を帯びて滲む。
(これは・・・当分動けそうにないな)
頭の片隅で妙に冷静な第三者の自分がそう宣告したとき、枕元の襖が静かに開いた。



(聖か?)
声をかけようとしたとき、幼い口調が頭の上で言った。
「おじちゃん、だれ?」



枕元に座ったのは4、5歳くらいの少年だった。
色白の面に切り下げた前髪が一見おとなしやかだが、炯々と明るい眼差しは、内に並々ならぬ霊力の存在を感じさせる。その面差しに、よく見知ったひとの面影を見て取り、僅かに微笑んだ。
「隆仁さまですね?」
思ったよりまともな声が出た。子供が首を傾げて自分の顔を覗き込んでくる。
「どうしてわかったの?おじちゃんだれ?」
お母様によく似ておいでですよ、と答えると隆仁は瞬いた。
「かあさまにはあまりおあいすることがないからわからない。」



桐子が婿を取ったのはもう7、8年も前のことだったろうか。遠縁でそこそこの霊力を持った、温和で存在感の薄い人物だったように記憶している。跡取りが生まれて役目を終えた彼が己の道楽に入れ揚げて屋敷に寄り付かなくなり、相変わらず当主の務めで忙しい桐子が子供を放ったらかしなのは仕方がないことだが、世話係がついているだろうに、なぜこの子はよりによって鬼の寝かされているこんな離れに迷い込んで来たのだろうか。
相変わらず自分の顔を覗き込んでいる子供の生真面目な顔に、少し目の遣り場に困り、溜息をついて瞑目した。息をするたびにずきずきと痛む腹も胸も、気怠く重く動かない四肢も、躰の全てがばらばらに離れてぐずぐずと砂の中に引き込まれるような頼りない感覚に、意識もろとも沈み込んだ。



次に目が覚めたときも室内はまだ明るかった。子供がさっきと同じ場所で自分を見ているのに気付く。たいして長い事眠っていたわけでもなさそうだと思ったとき、子供が口を開いた。
「きょうはねちゃわないでね。」
今日は、だって?
「みんないそがしくてぼくのことかまってくれないんだ。おへやでおとなしくしてらっしゃいって。
いそがしそうにしてないの、おじちゃんだけなんだよ。」
よくわからないが何やら忙しいことになっているらしい。聖が側にいないのもその所為だなと少しはっきりしてきた頭を巡らす。
「お部屋はこの近くなのですか。」
子供はちょっと首を傾げて考える様子を見せた。



「えーと、おそとのろうかをはしまでいって・・・」
一度庭に降りて生け垣を潜って向こう側に出たら人に見つからないように植え込みの陰を屈んで桜の木のところまで行って・・・
要は大冒険なのだ、この子にとっては。ここは多分、普段入ってはいけないとされている禁断の場所なのだろう。大人達が多忙で監視の眼が逸れた隙を狙って探索にやって来て、見つけたのが寝ている自分だったのだ。
叱られる危険を冒した割には大した収穫ではなかったなと、微笑ましくも若干気の毒に思う。
退屈しておられるのでしょうが、遊んで差し上げることはできませんよ、と言うと、子供はあからさまにがっかりした顔をした。
「私は怪我をして動けないのです。」と言う自分の言葉にそれでもうん、と頷いた彼はしかし、それじゃね、とおもむろに期待に満ちた目を向けてくる。
「なにかおはなし、して。」
おはなしだけなら、うごけなくてもできるよね?
さて、それは確かではあるが、子供にするに相応しい話など知っていただろうか?
天井の木目を見上げて、どうはぐらかそうか考える。



幼い頃には確かに自分もお伽話の類を聞いたはずだ。竹取の翁、八岐大蛇、因幡の白兎・・・
だが、息を詰め全身で聞いたはずのそれらは、大方記憶の淵に沈んでしまい、浚えることも最早不可能のようだ。童話の類は必要がなければ絶対に読まない。
しかし朧な記憶を辿りかけて不意に気がついた。昔々で始まる物語の中には、自分たちが生きてきた時代、見てきた光景がそのままあることに。
様々な出逢いと別離。敬意ある敵対や卑劣な裏切り。慈愛に憎悪に慟哭。
噴き出す憤りも突き上げる歓喜も、全て時という名の紗に包んで・・・
後から来る者が、過ぎた時間を物語にする。
自分は常に、現在進行形のお伽話の中に在るのだ。



ならば語ってやれることは尽きせぬほどに。



外の廊下を、足早に行き来する音がする。潜めた声が、おられたか、と問いかけているのが聞こえた。
「そんなところにお座りでは見つかってしまいます。」
ここにお入りなさい、と重い腕を無理矢理持ち上げて布団を捲る。小さな子供はぱっと顔を輝かせて、熱っぽい躰の脇に滑り込んで来た。じくり、と痛む腹の傷に力が入らないよう気をつけながら、子供を隠すように布団をかけ直す。
ぱたぱたと上から宥めるように叩くのは、聖の癖。子供が満足そうに自分の胸に頬を寄せて溜息をついた。
この子は成長して母の後を継ぎ鬼使いになることだろう。主人として自分に命を下し、時には死地に放り込むこともあるだろう。だがそれも、過ぎてしまえば物語の一部。そして、自分と聖が生きている限り、この物語は永遠に終わらない。
いつか思い出すだろうか。そして気付くだろうか。今日こうして、いずれ自分も加わる長い物語の一端を語り聞かされたことを・・・



本当は聖の方が得意なのだ、子供の相手は。今頃何処で何をしているのやら、桐子を怒らせていなければいいが、とちらりと不在の相棒に思いを馳せながら、呼吸を整え、ゆっくりと語り始める。



「昔々あるところに、二匹の鬼が住んでおりました・・・」