「あーあ」と後ろに手をついて反り返った。
朝餉の後ずっとここに坐って筆を持たされて、もう昼に近い。馴れない筋肉ばかり使って腕も背中もばりばりに凝ってしまった。背中を反らしぐるぐると肩を回して凝りをほぐす。
山中で仲間に囲まれて頭領に納まっていたときは、読み書きの必要など全くなかった。そんなことは茨木に任せ、自分は仲間内のいざこざに気を配っていればよかったのだ。
だが、ここに来てからは毎日のように手習いだ。気難しい先住者が、主に恥をかかせるな、と必死で読み書きを教え込もうとしてくる。
この無口な鬼は今日もついさっきまでここに差し向かいに坐り、無言でこちらの筆遣いを見ていたのだが、主に呼ばれて使いを命じられた。
ぱりぱりと触れれば音を立てそうな沈黙に終止符が打たれ、やれやれこれで解放される、と思いほっとしたのも束の間、戻るまでにこれを20回書いておけ、と急ぎ書き残されたのは、読むことも叶わぬような達筆の手本。
高遠を怒らせると後が煩い。仕方なく、和歌らしいそれを、読み方もわからぬままになんとか形をまねてさっきから書き写しているのである。


「あと9回かあ。まったくなんでこんな目に会わなならんのやろ。」
一人ぼっちになる怖さに後先も考えずにここに来てしまったけれど、こんなことになるとは想像もしなかった。
(高遠はええわい、子供の頃から学問ばかりしとったのやろうし。)
自分は小さい時分に親に捨てられ、生き延びることで精一杯だった。あいつとは所詮育ちが違うのだ。
(ああ、それがなんで今になってこないな苦労を改めてせんならん。)
もう小言覚悟で逃げてしまおか、と伸びをして、そのまま仰向けにひっくり返ったところに人影が射した。


や、もう帰ってきたか、と慌てて起き上がったが、柔らかな気配とともに入ってきたのは主だった。
(なんや、じいさんかいな。慌てたやないか。)
「ほうほう、手習いかね。よく頑張るの。」
「やりたくてやっとるわけやないわ。高遠がやかましゅうてかなわんのや。」
見てみい、こんな読めん手本置いて行きよってからに、と高遠の書いて行った手本を主に見せた。どれどれ、と手にとった主は、ふと寂しい顔をした。
「もう雁の渡る時期だからのう。あれも思い出す事があるのだろうよ。」
何を思いだすんや?と尋ねると、主は微笑って、手本の和歌を声に出して読んだ。

かりがねの秋なくことはことわりぞ 帰る春さへなにか悲しき

「高遠は綺麗な字を書くが、お前の手習いの手本にはいささか荷が重いの。これは、菅公の詠んだ歌だよ。」
雁の啼声を聞き、お前は春になれば帰れるが、自分は何時になったら帰れるものか、と詠んだものだよ、と教える主にふーんと感心する。
これは高遠の師の詠んだ歌か。

高遠を伴って大宰府に流され、都の事ばかり考えて嘆いていたという菅原公。敬愛する師の嘆く姿を、なすすべもなくただ見ていたであろう高遠の気持ちをふと考える。
段々に心の壊れていく師にひたすら従い、慰め、心を尽くして仕えた挙句に、独り重すぎる荷を負わされて取り残されたその身の上を。
(俺は自分でなりとうてなった鬼やさかい、誰の所為でもあらへんけどなあ。)
いつでも取り澄ました表情を崩さず、ともすれば冷淡を通り越し冷酷とさえ思われるその振る舞いは、信頼しきっていた相手に打ち棄てられた痛手の名残なのだろうか。
それでも咄嗟の手本に師の嘆きの歌を書きつけて行った高遠の心の内を思うと、胸がじわりと痛むような気がした。

「お前は優しい子だ。」と主が言った。つい黙り込んだ所為で考えを見抜かれたと悟り、照れ隠しにへへ、と笑って立ち上がる。
「あと9回残っとるけど、もうええわ。どうせ高遠も俺が言いつけ守るとは思うとらんやろ。」
庭にひょいと飛び降り、一番気に入りの木の気に入りの枝に取り付いて落ち着く。高遠は木登りは好かんさかい、追いかけてくる事はあらへん。ああ、ちょっと昼寝でもしたろ、と気持ちよく秋風に吹かれて目を閉じた。


「鬼同丸。」と不意に声をかけられて目が覚めた。途端に均衡を崩して枝から落ちる。
地面に転げて、あ痛あ、と目を上げると、高遠があきれた顔をして見下ろしていた。
「木の上で昼寝などするからだ。落ちるに決まっているだろうに。」
「お前とはできが違うんや。そう簡単に落ちるかいな。」
現に落ちたではないか、と冷笑した高遠は、しかし不意に首を巡らせて空を見上げた。

薄曇りの秋空、雲に紛れて輪郭の朧な陽の前をよぎって、雁の一群が渡って行く。
一見傲慢とも見える玲瓏たる美貌に、淡く翳りが射す。

凍り付いたように動けずに見とれた。何て哀しい顔をするのだろう、この鬼は。
と思ったとき、高遠はふっといつもの無表情に戻りまたこちらを見下ろした。
「いつまで転がっている気だ。どこか打ったのか。」
いや、ちょっと、と誤魔化しながら起き上がろうとして、したたか打った背中の痛みに顔を顰めた。
「やはりどこか打ったな、愚かな。痛かっただろう。」
そら、と手を差し伸べられて驚く。素直にその手を掴んで引き起こして貰う。いつも他人のことなど構わない高遠が今かりそめにも自分を気にかけてくれるのは、救いの手を心の底で待ち焦がれた己の苦しみの一端でも思い出したからだろうか。辛かった記憶が気紛れに蘇って、一瞬でも気弱になったのだろうか。

「痛いのはお前の方やろ?」
思わず口をついて出た言葉に、高遠は形のよい眉を僅かに吊上げた。
「どういう意味だ?」
「いや、何でもあらへん。あの手本な、まだ11回しか書いとらんのや、堪忍な。」
と、なぜかうろたえて要らぬ弁解までしてしまう。高遠は、ふん、と鼻で笑って、お前のことだ、その程度だろう。と言った。 普段と寸分変わらぬその調子に、いつもならむっとするところなのに、今はほっとする。
その高飛車さが虚勢なのだと何とはなしにわかってしまったから。
裏切られても傷つけられても、なんでもないと虚勢を張れるうちはまだ大丈夫、心は潰れはしない。

なあ、高遠。お前を置き去りにした主のことなんぞもう忘れや?
もう二度と独りにはせんから。お前を裏切って打ち棄てるような真似はせんから。

さあ、書いた分を見てやろう、と背を向けた高遠を追って、歩き出す。
本当は俺の方がお前を守ってやるのだ、と密かに誇らしく思いながら。