| 情 炎 なんと儚げで、見目麗しい男だろう。都人とは、皆このような者たちなのだろうか。 初めて高遠を見たとき、そう思った。父が拾ってきたこの、坂東には不似合いな男は、纏う空気の色さえも違うようだ。 そのせいかどうかは知らぬが、あの父が珍しく夢中になって傍から離さない。父を取り巻く状況も芳しいものではなく、日に日に疲労の色を濃くしていく顔を見ているよりは、自由な坂東を作る夢を語り、昔のように楽しげな声を聞くほうが私も嬉しい。 けれども、流れるように優雅な立ち居振る舞いが自然に身についた美しい男など、この坂東にはふさわしくない。 だが今までの私の狭い世界の中には、あのような者はいなかった。尊敬する父上も、あのように、優雅でありながら孤独で危うく、人を寄せ付けない妖しい強さは持ち得ない。 そして、尚も腹立たしいことに、あの男は私の存在など見えてはいないかのように、私に視線を移すことすらしない。 都の貴族か何か知らないけれど、ここ坂東で知らぬもののない平小次郎将門の娘である、私を無視するなど許せない……。 「お待ちなさいっ!」 廊下で呼び止められ高遠はゆるやかに振り返った。 (女…?) 黒髪を乱し、眦を上げて足早に追ってきた女は、足を止めた高遠に追いつくと、まるで仇にでもあったようなきつい眼差しを向けると問い詰めるように口を開いた。 「おまえっ!父上に何をしたのっ?」 気の強さが表情に表れているが、坂東の女にしては色の白い綺麗な肌をしている。思い込んだら脇目も振らずに走りそうな勢いは父親譲りだろう。それが生きている女を余計に美しく輝かせている。 自分とは対照的な強い生気を受けて、一瞬嫉妬にも似た感情を抱き、心の中で首を振る。うらやんでどうする…。もう俺には関係ない。ただひたすらに求めるものは怨みの成就。 「……如月といったか?」 問い詰める視線が受けとめられ、形の良い唇から自分の名が洩れたとき、知らない感情が動いた。この男は、私のことなど気に留めたこともなかったはず…。名を呼ばれるなどとは思わなかった!うろたえながらもその感情を追うことを止め、揺れる気持ちを押さえ込んで目の前の綺麗な顔を睨みつける。 「あのように思い悩む父上を見たことがない。おまえが来てから、父上はおかしい。ここ数日は特に。一体父上に何をしたの!?」 こんな昂ぶった感情を発露できるこの女。壊してやろうか……。それとは気づかぬように、優しく包み込んで、真っ直ぐな思いを捻じ曲げてやったら、この輝きはどうなるのだろう。異生物を眺めるような蒼い視線を注ぎながら、そう思う頭の、別の部分で冷静に考えている。 将門を利用するのなら、娘も共に利用してみるのも面白い。この娘は父を慕い、父はこの娘を愛し、慈しんでいる。 愛情だと!慈しみなど、とうの昔に忘れ去った。だから、偽物の愛情を利用しても……。この娘の輝きを握り潰してくれよう……。 愛だと?……かつて俺にも、そんなものがあったのだろうか。 ばかな。何を考えている、雷電。 「なにもしてはいない。将門が困るようなことはなにひとつ。」 「うそっ!おまえのせいに決まっている。先日来、父上は何かひどく悩んでいる。おまえが関わっているに決まっている!」 何故この男はこんなに静かな突き放すような瞳で見るのだろう? 私は何をこんなにむきになっているのだろう。初めて言葉を交わしただけの、坂東には不似合いの綺麗なだけの都人なんかに。 「ならば、将門が何を考えているのか、教えてやろう。如月。」 一歩近づいて、女の眼を覗き込む。こちらの思惑に引きずり込んでやる。 無意識に震えた身体に、如月は負けるものかと思い直して、男の眼を見返す視線に力を込める。こんな男、怖くなんかない。この私が、たかがよそ者一人に怯えてなどいる訳がない。こんな男は早く追い払って、父上を元に戻さなくては…。 これ以上は堪えられない…と如月が思った時、男の視線はすうっと外れ、優雅に身体の向きを変えると廊下を進んでいく。男の香の匂いが如月の意識を縛る。 滑るように前を行く男の背中を追って歩きながら、自分の中のこの鼓動を持て余している。 これは、な…に……? 高遠は自分にあてがわれた部屋に入ると背中を向けたまま、如月を待っている。部屋の前で一瞬躊躇ったが、深呼吸して鼓動を抑え、勝気な瞳を輝かせて中に入った。 振り向いた男の表情が、先程までと違って優しさに溢れているように見えた。再び鼓動が激しくなるのを覚えて混乱した。背の高い彼は美しい顔で優しく微笑みながら如月を見下ろし、その手が白い顎を捉えた。刹那如月は戦慄を憶え、直後に触れた柔らかい唇が、身体の中心から赤橙色の波を呼び、全身を駆け抜けた。 (あ……) その瞬間、全てを理解した。 これは恋…だったのだ。初めて見た時からずっと、心はこの男を追っていた。坂東には不似合いだと反発したのも、父と語り自分など眼中にないことへの怒りも、今、こうして父を理由にこの男に食って掛かったのも。この、身体中を満たす甘やかな波が証明している。 悔しいけれど、抗えない。私はこの美しくて危険な男に屈服せざるを得ない。 それでも、最後の誇りをかき集めて、問いかける。 「おまえ…は、何者なの…」 如月の顎に手をかけたまま微かな笑みを浮かべた口で、男は静かに言葉を紡いだ。 「私は八幡大菩薩の使い。平将門に朝廷を討ち、坂東に新しい国を建てよと告げに参った。」 「!……まさか!!」 今までとは別の熱が体を駆け登り、男の手を払って、見開いた瞳が男の眼を見つめる。 「…それで父上はあんなに悩んで……」 少しも動じていない黒い瞳が、如月の怒りに燃える視線を受け止め、宥めるような哀れむような落ち着き払った静かな声が、跳ね上がった如月の声を御する。 「将門の置かれた状況は、おまえも理解しているだろう。将門が朝廷に弓を引くのは、もうやむをえないことだ。だが、将門の願いでもある、関東に新しい秩序をもたらす国づくりは、八幡大菩薩が認めている。悩むことなど何もないのだ。おまえも、父にそう進言するが良い。朝廷を討てと。」 大宰府へ下る前、契った娘がいた……。 腕の中で眠る白い身体を眺めながら、突然思い出した。この女のように男に向かってくるような強さはなく、いつも穏やかで、はにかんだような優しい眼差しで俺を見ていた。都を出るような事がなければ、きっとあの娘と、平穏で、温かな生活を送ったことだろう。俺はあの娘を…愛していたのだろうか……? 女が眼を開けた。薄明かりの中でも、濡れたような瞳が刺すように真っ直ぐ雷電を見つめる。ふっと頬を緩めて雷電は女の髪を梳いてやる。瞳の奥が揺れ、視線が柔らかくなる。幸福そうに眼を閉じると顎を下げて額を雷電の肩に預けた。 他愛もない…。そんな表情をするからあんな昔のことなどを思い出す。今の俺にはさっきの強い視線のような激しい女のほうが似合いだろうに……。 常陸の国で国守常陸介・藤原維幾と対立した藤原玄明が、将門を頼ってきた。将門は自分を頼ってきた者を、放っては置けないだろう。維幾は玄明の引渡しを要求している。 非は玄明にあるのかもしれないが、ことの是非よりも頼られているというその一点が将門には大事だ。 これで、将門が起つのも時間の問題だろう、と雷電は人知れず状況を分析している。 全身が蕩けるような幸福も、愛しい男との一体感に知らず流れる涙も、長くは続かなかった。 幾度か身体を重ねるうちに分かってしまう。 この男は私のことを見てはいない…。私を愛してなどいない。 男は私の知らない世界で、何か大切なものを追って、遠くを見つめている。 父は、彼の役に立つのだろうか?私を通り越して、関心があるのは父上なのだろうか?それとももっと違うもの……。 所詮、坂東の小娘など相手にするようには見えなかった。だから、きっと無意識に反発したのだ。愛したら、自分が苦しむと知っていたから…、自己防衛だったのだ。この男に取り込まれないための。 でも、もう遅い。私はこんなに私の存在全てでおまえを求めている。こうして抱かれる度に、おまえを受け入れる程に、私の中で夜叉が目覚める。こんな想いを強いるおまえに、憎しみをさえ抱きながら、それでも消せない想いが私を夜叉に変えていく。 間近で見ていても、綺麗な顔は、作り物のように整っている。 視線を感じたのか、その黒い瞳に妖しい光を宿して、男が静かに如月の顔を覗き込む。 「どうした?」 男の瞳に自分が映っているのを確認し、目を伏せると腕を伸ばして男の首を引き寄せた。両の掌で耳の後ろから頭を抱き寄せると、ゆっくりと目を開けて、愛しい男の顔をしっかりと見つめながら、唇を重ねる。 おまえは知らないでしょう。 男は初めから鬼として存在するけれども、 女は鬼になっていくのだということを……。 11月になって将門が動いた。 藤原維幾の要求に対して、常陸に出兵し常陸国府を襲撃した。国府の襲撃ということは、国家、つまり朝廷に対する反逆である。 雷電は、将門を煽った。 「それでよい。おまえならば、東国の覇者となり、都を灰にして朝廷を討ち取れる。敵は朝廷。おまえは坂東に新しい国を作るのだ。朝廷を滅ぼせ。」 12月、将門は下野の国府を占拠して国守を追放。新皇と称して除目を行った。 「おまえは…一体何を望んでいるの?八幡大菩薩の使いというのは本当?」 愛しさに身を灼きながら、冷静な男に憎しみを込めて問うた。 端正な顔に薄く笑みを浮かべて見下ろす瞳に捕まるまい、と精一杯自分に抗いながら……。 父が動いてからの状況の変化に、この男の表情が活き活きとしてきたと、如月は感じている。 常と変わらずに静かに見える表情に、周囲の者はきっとこの男の変化に気づいていない。 でも、私には分かる。男の中に人知れず、高揚感が湧き上がっていることを。 そして、同じように私の中にも、この男を愛しているのと同じ強さで憎しみが生まれていることも。断ち切りたいと願いながら、縛られている男への想いを恨んでいることも。そのうち、この想いが溢れたら私は一体どうなってしまうのだろう……。 女の瞳の中で燃える憎悪の炎が心地よい。意図したように女の想いが屈折していくのが見えて面白い。 「俺は鬼さ。将門に朝廷を討たせるために坂東まで来た、な。菅公の恨みを晴らすために。」 「菅公の!! では、都で名高い怨鬼!雷電……!おまえが……」 如月が感じたのは、恐怖ではなかった。至極納得できる思いがあった。 ああ、そうだろう。この男が普通の人間でなんかあるわけがない。だからこんなにも惹かれるのだ。私がこの男を愛しながら憎み、夜叉となっても良いのだ。これはそういう男。 「朝廷を討つ。将門だって朝廷を恨んでいる。朝廷など浅ましい出世欲の吹き溜まりだ。あんなものは滅びれば良い!道真公にあのような仕打ちをして。のうのうと生きている貴族など俺が全て滅ぼしてやるのだ。」 朝廷に向ける雷電の怨みの眼のなんと美しいことだろう。恨みに燃える瞳が私を安堵させる。この男が見つめていたのは菅公の怨み、追っていたのは朝廷への復讐…。父に関心があったのは朝廷に叛く力があったからだ。それでも良いと思った。どれほどの気持ちが籠もっていたのかはわからないけれど、それでもおまえの口は私に向かって愛していると言うのだから。私は……くるっているのかも知れない。雷電、おまえに恋焦がれる想いに……。 父上の討ち死にを知らせたのは、雷電だった。 1月に入り、朝廷は藤原忠史を征夷大将軍として、将門追討の命を下した。 2月14日、坂東には、強い寒風が吹き荒れていた。追討軍は三千。迎え撃つ将門軍は四百。数は力という基本を思えば無謀な戦いではあった。 だが、地の利を活かし、己の信念を貫いた戦いに、将門軍は善戦していた。 将門の出陣を見送った雷電は、今、高い位置から両軍の動きを見ていた。長い髪も衣の袖も坂東の冷たい風に遊ばせて、冷ややかに戦線を見守っている。 将門軍は追い風を味方につけて、兵力差を埋めるかに見えた。追討軍の矢は、強い風に阻まれてなかなか将門軍まで届かない。 あるいは、と思ったとき、鬼の眼は、雲間から光を背負った神兵が降臨してくるのを認めた。眉をひそめて眺めていると、神兵は、地上に向けて光り輝く矢を放った。 「ふん……」 風向きが変わった。将門軍は一瞬にして向かい風を受ける位置となった。朝廷の呪詛。 「調伏か。」 もともと、勝てる戦ではない。8倍近い兵力の差は歴然としている。相手がこの強風を味方につければ、万に一つも勝てる可能性はない。 「これまで……だな。」 何の感情もこもらない声で将門の敗死を告げる雷電に、鬼の本性を見た。 あれだけ父上にさまざまなことを吹き込んだくせに…、本当に朝廷への恨みだけではるばる坂東まで来て利用した。憎むべきだ、と頭の隅で理性が訴えていた。この鬼をこそ恨むべきだと。父を迷わせ、一族を陥れ、私を一人にした。憎むべきは、目の前の涼やかな顔をしたこの鬼。わかっている。 それなのに…、私の感情はそうは思っていない。全てを失くした私には、もう、雷電しか残っていない。失ったものを埋めるのは、この鬼しかいない。 「おんな」という身体が求めている、「おんな」という想いが縋っている、「おんな」という夜叉が全霊をかけて、雷電を欲している。 如月は青ざめた顔をあげて感情を映さない雷電の視線を捉える。 「……雷…電…」 大丈夫、少し掠れたけれど、私の声は普通に聞こえる。 「雷電、父上の仇を討ちたい…。私も朝廷に復讐を…父上の仇を討ちたい。どうかその力を私に…」 「やめておけ、女の身で復讐など願うな。」 冷たい声で、如月の願いを一蹴した。 私に向かって愛していると言ったその同じ口で、私の身体を溶かしたその唇で、柔らかく名を呼んだその声が、如月の存在そのものを拒絶する。その仕打ちに茫然自失していた如月の誇りと矜持が刺激された。 身の内の夜叉が今、如月の中で心を喰い支配した。この鬼を手に入れるにはどうしたら良いだろう。 妙に醒めた感覚が心にある。雷電の願いは朝廷への復讐。ならば、この私が、共に復讐してやろう…。いつもおまえと共に在って、おまえの傍らで…。鬼のおまえは人間の女など愛したりはしない。ならば、私も鬼になって長い年月をかけて、私を振り向かせてみせようか…、共に生きるものとして。雷電を手に入れるとは、永遠にこの想いが成就するということ。 「私に復讐を強いたのはおまえでしょう、雷電。 何故私が父上の仇を討たなければならない状況になったの?全て、おまえが招いたことでしょう?」 「鬼にでもなれば、その願いも叶おうが…」 語尾にためらいが残ったのは何故だろう? 「ならば、鬼になりましょう!鬼にでも蛇にでも。それで願いが叶うなら」 私の本当の願いを、おまえは知らないでしょうけれど。父の為ではない。雷電が朝廷への復讐を願うから私も朝廷への復讐を願うのだ……。 「おまえと共に永劫の時を…」 「では、俺と共に墜ちるか」 雷電が、差しのべられた細い腕を取った時僅かに感じた悼みだけは、純粋に如月に与えた感情だった。人としての如月という女に…。 鬼女となり、滝夜叉と名を改めた如月は、燃えさかる炎の中に立っていた。 将門の娘の謀叛を知った朝廷は、再び討伐軍を差し向けた。囲まれ、火を放たれた館の中で、滝夜叉はもう自害するしかないことを悟っていた。 鬼になっても……無力だった。雷電は助けには来ない。そんなことは最初から分かっていた。あの鬼の胸の中には憎悪と怨念しかない。父ほどの力もない私など、なんの利用価値もなかった筈なのに。 (では、俺と共に墜ちるか) 耳元で聞いた声が心地よかった。怨みに燃える眸に魅入られた。だがそれよりも、時折垣間見せる別人のような眼差しが好きだった。怨鬼である雷電の中に潜む、異質な魂が私を惹きつけてやまなかったのだ。 おまえの傍らに在りたかった。ずっと……。 愛されなくてもいい。側で見つめていたかった。永劫の時を共に……。 周囲の暖かい橙色の炎のなかに、冷たい血のように紅の炎がまるで蝶のように燃え上がった。その中心から、紅い火の粉を燐粉のように撒き散らしながら、真紅の蝶が翔びたった。 蝶は、炎をかいくぐりひらひらと館の外へ飛んでいく。 館の燃えるさまを、雷電は遠くから見ていた。滝夜叉を鬼にしたのも、真っ直ぐだった生の輝きを捻じ曲げたのも、偽りの愛を告げたのも自分だった。それでも、助けには行かなかった。死ねるのは幸せだと、羨ましくさえ思ったから。 知っていた。滝夜叉が鬼になったのは将門のためなどではないことも、自分のために同じ願いを持って鬼になったことも。それでも、自分は滝夜叉の想いには応えられないことも。 永遠の生を生きるのは辛い。自分ひとりでさえこの苦しみにのた打ち回っているというのに、幾らも経たないうちに互いに憎しみ合うのは目に見えている。 俺はおまえの想いに応えてはやれない。永遠の生におまえの想いは重過ぎる。死ぬことが許されるなら、死なせてやる方が幸せに違いない。 遠く燃える炎を見つめる雷電の視界にひらひらと紅いものが入ってきた。雷電の周りを飛ぶそれは、可憐な真紅の蝶。 (雷電……私を憶えていて…。おまえを愛して、憎んだ女がいたことを。そして、これから先、おまえは傍らに誰も置かずに一人で生きていきなさい。それだけが私の願い。おまえを愛したことを後悔はしない。 雷電…愛しているわ…永遠に……) 蝶は、目の前で輪を描くと、真紅の炎となって燃え上がり消えた。 滝夜叉か…… 黒髪と強い眼差しを思い出し、真紅の炎はあの女の情の炎だと思った。 館が燃え落ちるのを認めた後、雷電は振り返ることもなくそのまま、冷たい風の吹く坂東を後にした。 たった一人でこれからの長い時を生きてゆくために――――――。 |
(2004.3.3)
葛城さまから久々に頂きものです。
今度は如月と雷電v美しい組み合わせですね!
歴史をしっかり組み込んでぐいぐい読ませる筆力がいつもながら素晴らしい〜
葛城さま、どうもありがとうございました。