| 一管の調 「またや、ユミちゃん」 「ああ。」 ここ数ヶ月、二人が出かけるとたびたび後をつけてくる気配を感じる。 だが、電車で出かけるときに限られていて、車で郊外に出たときには現れない。 「今日は、とっ捉まえてやるで。悪意は感じへんけど、気になるさかいな。」 「そうだな。」 「俺らを知っとるのやったら、こそこそ付いてくるよう真似はせんやろし、かすかやけど妖気も感じる。」 二人は、わざとゆっくりと歩き、追っ手を近づけると次の建物を曲がった。続いて曲がってきた人影の前に弓生が立ちはだかる。あわてて振り向いた後ろには聖が。 「何や、おまえ。この前から俺らの後をつけてきとるやろ?」 「我々に何か用か?」 弓生が静かに問いかけた相手は14,5歳だろうか。ふとした拍子に、まだ幼さのかけらが顔を出す、そんな年頃に見える少年だった。整った顔立ちをしていたが、金色がかった瞳はどことなく拗ねたような、ぶっきらぼうな様子を漂わせて、正面の弓生を睨みつけた。 「なんや、まだ子供のくせに人の後つけたりして。俺らに何の用や?」 聖ののんびりした声に、少年は覚悟を決めたかのように叫んだ。 「てめえらのどっちかって、雷電って名前かっ?」 「だとしたらどうなんだ。」 常と同じに表情を変えず、弓生は尋ねた。 「雷電って鬼に用があるんでぃ」 「鬼にか?どういうことだ」 「そういうおまえも、人間やないやろ?」 少年に近付いた聖が声を掛ける。 「俺は、もうほとんど人間だけど、まだちょっと妖怪の血も混じってる。それを感じるってことは、やっぱりてめえらは鬼ってことかっ」 「なぜ、我々の後をつけてきた」 「匂ったからさ。妖の匂いが。俺には犬神の血が混じってる。犬は鼻が利くからな。」 「それで?」 「雷電って鬼を捜してる。」 「だから、何でや?」 「雷電って鬼に渡せと言われて預かってる物があるんだよ」 「誰からだ?」 「俺のひいじいさん」 「ひいじいさん?そりゃまたえっらい長生きのじいさんやな」 「ひいじいさんは妖怪だからな。俺が直接預かったわけじゃないけど。ひいじいさんは800年くらい生きたって話だ。それでも、妖怪同士の戦いで受けた傷がもとで死んだっていうから、本当は自分で渡すつもりだったんだろ。俺が預かったのはじいさんからだ。じいさんは完全な妖怪じゃなかったからな、それでも500年くらい生きてたらしい。」 「雷電は俺だが」 「やっぱりそうか。不老不死の鬼だって聞いてたからさ。俺の妖力で捜せるかどうか心配してたんだけど、とりあえず遺言は果たせそうだな。」 「預かり物とはなんだ」 「こいつだ」 少年が、ジーパンのポケットに差していたものを抜き取った。色褪せた綾錦の細長い袋。 しばらく見つめていた弓生の表情に、変化があらわれる。 「ユミちゃん……?」 「それは…」 「これを、雷電って鬼に返せってぇのがひいじいさんの遺言だったらしい」 「なんや、それ?ユミちゃん知っとるん?」 「それでは…おまえのひいじいさんというのは……」 「雷電って鬼から直接預かったのは俺のひいじいさんだって話だから、憶えてるのか?」 「俺がまだ、人であった頃大切にしていた。……道真様から賜った笛だ」 それは、まだ雷電が鬼として怖れられていた頃のこと。 朝もやの中を、前夜浴びた血を洗い流そうと木立の中の泉へと向かっていた。 初夏の朝は早く、朝もやを通して朝陽がきらめいていた。 ―――眩しい…。俺にはもはや陽の光は似合わないということか……。――― 夜の間は何も考えずに鬼として、怨みを晴らすという一点に心を向けることができる。 夕暮れを背景に、聳え立つ貴族の大きな屋敷や内裏を見ていれば、憎いと思う心が身の内を満たしてくるのを感じることができる。 それなのに、清浄な朝の空気の中では、まるでそれらは夢であったかのように、自分の中に怨みも鬼も見出すことができず、戸惑うことがある。 もう何年も怨鬼として恐れられている自分であるのに…。 ―――まだ、自分の中には人としての心が残っているのだろうか? ―――いつか、何も感じない本当の鬼になれるのだろうか? ―――他人の怨みを晴らした後、自分はどうなるのだろうか? ―――それよりも、他人の怨みとは晴らすことができるのだろうか? ―――もう、永遠に救われることはないのだろうか? 明確な形にならない、さまざまな思いの渦に捉われている。 苦しくて、己を持て余している。 樹々の隙間を洩れ通ってきた明るい陽光が、透明な線を描いて泉の周りを跳ねている。泉の向こう側には苔むした大木が横たわり、周囲には冬の間に降り積もった落ち葉が湿気を含んで香気を放っていた。 ―――早く、血の匂いを落としてしまいたい。――― 夜が明けるまではそんなことは思いもしなかった。 恐怖に怯える人々の叫びも、自分に返ってくる血を浴びることも、燃える家屋敷や逃げ惑う下人たちの姿でさえ、心地好く感じていたのに。 木蔭から出て泉へと踏み出したとき、その人影に気付いた。 倒れた大木の向こう側に立ち、歩いてくる雷電を待っていたかのように、まっすぐこちらを見ている。 白い。自分と対照的に白い印象だった。 雷電は漆黒の髪と同じように黒い眼。黒い装束もまた印象を黒くしている。そして、人であったころよりも、さらに深い愛惜と哀しみが瞳のうちに影を落としている。 正面の相手は白皙の美しい顔と鋭い眼差しをしてはいたが、陽の光を身に浴びて凛と立つ姿は冷たいばかりの印象ではなく、近付いてくる雷電を興味深げに見ていた。そして滝のように背中に流れる豊かな髪は光輝く白銀。 「そなたが雷電か?」 それから、金茶の瞳に面白そうな色を浮かべて雷電の顔を眺める。 「貴様、何者だ?鬼ではないが人でもないな?」 「私か?人間達は私を妖怪とか妖とか呼ぶが……。人から見れば私も鬼の仲間かもしれないな。で、私の問いには答えてはくれないのか。私はここで、雷電という鬼を待っていたのだが?」 「雷電は私だ。」 「そうか。そなた夕べはかなり暴れてきたようだな。だが、今そなたの顔を見ているとあまり満足しているようにも見えないがな。」 「どういうことだ?!」 「いやなに、言葉どおりさ。妻が怖がっているのでね。ちょっと話をしてみようかと思ったまでだ。」 「妻……?」 「そう、私はこれでも一応妖の中でも、かなり由緒のある一族の長でね、かれこれ300年近く生きているんだが、都に人間の妻がいるんだ。ああ、それはかなり変わっていることだよ。一族の中では大騒ぎさ。今でも。」 ―――人間という種族を、一族の者は蔑んでいるのでね。何もできないくせに我々を恐れ、力もないくせに自分達こそがこの世界の主のような顔をして。最近では我々、まあ妖とか妖怪の類いだが、を人間の世界から排除しようとさえ考えているようだな。 私の一族は犬神の血を引いている。まあ、人間風に言えば犬の妖怪とでもいうのかな。一応、神というくらいだから妖力も生命力も普通の妖怪たちよりも強い。 どこの世界も同じでね、力を欲する輩は後をたたない。私は直系だから、この血を求めて年中あちこちから狙われてうんざりしていた。身を守るためと、一族を守るために戦いに明け暮れてね。 もう、面倒になって、この身体に流れる血をどこぞのくだらん妖怪にくれてやってもいいかと思っていたんだが、偶然に出逢った人間の娘が面白くてね、生きることにも飽いていた私を救ってくれた。貴族の姫君のくせに、勝気で、一途で、賢いくせに怖いもの知らずで。妻にと望んだら、本人が承諾したのだよ。 屋敷に通うようになって、ますます愛しいと思うようになった。それまで、大切に守られて育ってきたのだろうに、私がこのような人にとっての妖であると知っていても、恐れることもなく、一途に愛してくれる。もちろん屋敷の者たちが私を歓迎する筈がない。 そんな中で、妖である私と恐れ気もなく契り、人でない子を産んだ。 当然、私は彼女よりも長く生きる筈だし、息子も普通の人間よりも長く生きるだろう。 それでも、私は彼女と出逢って、共に過ごした年月を悔やむことはないだろうし、人間という種族の素晴らしさを知ったことを良かったと思っているのでね。 歓迎していないのは私の一族の者たちも同じで、人間などと契ったといって、私を長から降ろそうと内輪もめまで起こった始末さ。そんな訳で、息子の生きる道も険しい。一族も、当然人間もあの子を受け入れはしないだろうから。 それでも、私は人間という種族は類い稀な素晴らしい種族だと思う。何よりも深い愛を持っているということがね。きっと息子が生きていける世界は妖の世界よりも人間の世界の中にあるように私は思うのだよ。人間の女の愛が私に初めて安らぎというものを与えてくれたようにね。 雷電というのは怨みの鬼だそうだが。 怨みというのは、その深い愛の裏返しなのではないのか?―――― 美しい、人の姿をしたその妖は、雷電の黒い瞳を覗き込むと、唐突に話を変えた。 「昔、そう、かれこれ100年も前かな、都で素晴らしい笛を聞いたことがあった。そのときも人間という種族の感性に感心したものだったがね。 その笛を奏でていた者の名を、土師高遠と言ったよ。」 それまで、黙ったまま、男の顔を見つめていた雷電の肩がぴくりと動いた。 「雷電は、土師高遠だそうだが。」 「高遠は……とうに死んだ」 しぼりだすように、答える声が震えているのを自覚してしまった。高遠は・・・死んだのか?自問する声が頭の中で谺する。夜が明けると苦しんでいるのは一体誰だ? 「そうかな?私には今目の前にいるそなたは、鬼のようには見えないがね。その懐に大切に持った笛を是非聞かせて貰いたいな。」 「!」 「怨みが深ければ深いほど、その者の持つ愛もまた深い。そうではないかな?誇り高き人間であった、土師高遠よ。」 そうであろうか? 鬼となってから、笛に命を吹き込もうと思ったことはなかった。それでも、手放すことができなかったのは、何故だろう?道真様から賜った大切なものだからか? それも真実だと思う。だが、もしかしたらこの笛に人の心を感じていたからではないのか? いつかまた、笛に想いを込めて命を吹き込むことができるかもしれないと、心のどこかで願ってはいなかったか? 「人を愛していると言ったな。」 「ああ、人間は素晴らしい種族だよ。そなただって知っているだろうに。」 「貴族の姫君なれば、笛の嗜みもあるだろう。鬼となってからは吹くこともなかった笛だ。妖の妻たる、勇気あるおまえの妻にかつて人だったものとしての想いを託そう。私はもう、笛は吹かない。いや、吹けないのだ。だから……。」 懐から笛を取り出すと、目の前の男に差し出した。 「鬼に、このようなものは不要だ。」 ―――決別せねば。 きっぱりと告げた雷電に、妖はひどくがっかりしたような表情をみせた。 「そうか……。まだ少し時間が足りなかったか。まあよい、それではこの笛は預かっておこう。いつか必ずそなたに返すときが来ると思うんだがね。」 あっさりと、笛を受け取ると、 「妻は喜ぶと思うよ。人の命は短い。彼女が私を置いて逝ってしまったら、この笛は私が大切に預かろう。吹けるようになったらいつでも取りにくるが良い。私はもう一度高遠の笛を聴きたいと願っているのでね。」 そう言うと美しい銀の髪を翻し、ふわりと地を蹴っていずこともなく去って行った。 「ひいじいさんは、こいつのことをひどく気にしていたって話しだぜ。」 「…そうか。すまない。確かに私のものだ。」 「なあ、おまえ自分が人間じゃないってことを嫌っとるやろ?」 それまで、黙って二人を見ていた聖が口を挟んだ。 「そんなことねえよ。力だって普通の人間より強いし、怪我の治りも早い。便利なもんさ。」 「無理すんな。嫌やて顔に書いてあるで。」 「てっめえ、いきなり何なんだよ!」 「ん、俺らも鬼やからな。そういう思いはなんぼでもしてきた。けどな、力の使いどころを間違えんとおれば、なかなかええもんやで。」 「なんだそれ?」 「そうそう、俺らの知り合いでな、普通の人間なんやけど血筋でな、身体ん中に精霊鬼って、鬼飼ってる奴がおるんや。あいつも最初は苦労しとったけど、今は上手いこと使いこなしとるで。」 「ふーん。」 「めったやたらと力使うんでなく、大切なものを守りたいときに使えばええんや。自分にそういう力がある、思たらなんぼでも人に優しうできるやろ?」 「そういうもんか?」 「そういうもんや、ま、気が向いたら俺らンとこに遊びに来いや。上手いメシ食わしたるで。」 「その鬼飼ってる人にも会える?」 「まあ、あいつも時々来よるから、そのうち紹介したるわ。」 「じゃ、気が向いたら行ってやるよ。とりあえず預かり物は返したからな。」 「ああ、おおきに。ごくろうさん。」 肩の荷がおりたのだろう。少年は大きな声で「じゃあなーっ」と叫ぶと、身軽に走り去っ て行った。 「ありゃ、正真正銘犬の子ォやな」 夕食が済み聖が居間に戻ると、弓生は例の笛を出して眺めていた。千年を経て持ち主の許に戻った笛は表面に艶がなく、しまわれたままになっていたようだ。 「竜笛やな。立派なもんや。」 「あの妖に逢った頃、しばしば晴明様と戦っていた。あの方は俺があの方を呼んでいたと言われた。」 「なんで、妖に笛を渡したん?」 「あの妖怪は妖のくせに、なんのためらいもなく人を愛していると言った。うらやましかったのかもしれんな。俺が泣いていたとあの方は言われた。もしかするとあの妖怪もそう思ったのかもしれん。俺が鬼には見えないと言っていたな。」 「もう、吹いてもええんやろ?聴かしてや」 「晴明様の許に行ったのは、奴に笛を渡してから二十年ばかり後のことだ。」 「ユミちゃんは鬼にはなれへんよ。」 「俺は、鬼だが。」 「ん、そやな……。犬の妖の為に吹いたってや。」 弓生は姿勢を正すと、笛を構えた。静かに眼を閉じて息を吐き出す。 美しい、人の姿をとったあの妖を想い浮かべた。白銀に輝く長い髪と、鋭さと同時に慈愛を浮かべた瞳、そして会ったことはないが、彼を置いて逝ったであろう人間の妻とを。 想いを込めて音を紡ぐ。 今、全てを音に注ぎ込めば、晴明と同じようにあの妖は己を救おうとしていたのではないかと思い当たる。 そして、弓生の楽の音は高くうねり、晴明への想いを調べだす。 妖が欲したという高遠の笛の音に包まれて聖は思う。 ――――妖の言うた通りや。ユミちゃんは思いが深い。深すぎるんや。 俺にいっつも人と深く関わるなと言うとるのは、自分への言葉や。 思い過ぎて傷つくんはユミちゃんの方や。 それやから、ユミちゃんは鬼にはなれへん。なれへん鬼になったから苦しんどる。でもな、俺がおったるから。じーさんのかわりに俺がおるから。今までも、これからも…。 千年の想いを込めて聖は聴く。 千年の想いを込めて弓生は音を紡ぎだす。 彼を気にかけて死んだという妖への哀悼の調べは、晴明への思いへと連なり、やがて、今を共に生きる相棒へのいたわりと感謝に変わる。 高く低く雄弁な調べは都会の夜空を渡り流れてゆく。 遥かな時を越えて響いてゆく。 静かに、想いを込めて…。 |
(2003.11.27)
葛城さまからまたも頂いてしまいました!
今度はとても綺麗な、雷電絡みのお話です。雷電大好き♪
書いて書いて、頂戴頂戴と騒いだ甲斐がありました〜 言ってみるもんだ。
葛城さま、どうもありがとうございました。