氷  解


気がついたら、東京行きの飛行機に乗っていた。
御影の次期当主としての務めは怠ってはいないし、昨夜の弓生からの電話は充分に三吾を動揺させた。
あいつが、用もないのに電話をかけるはずがない。
僅かに震えた、何の抑揚もない声
悲痛な心の叫びを聞いたような気がした。
(弓生・・・)


「何だって佐穂子とホテルなんかに行ったんだ。聖、お前馬鹿か?」
あきれ返った言葉に、聖は何も言い返すこともできず落ち込んでいた。
「…で、ここには帰ってきてないんだな、」
携帯に電話しても、電源が切られていては通じるわけもなく、取り敢えず二人の居所に駆けつけた。だが、そこに秀麗なもう一人の鬼の姿はなく、おろおろする聖だけがいた。
強引に事の顛末を聞き出した三吾だったが、
「どないしよ、ユミちゃんおらんようになったら」
いつになく気弱な聖に、これ以上言うのがためらわれた。
佐穂子と聖のことに自分が口を出すいわれはない。
個人の自由だろ…佐穂子とて、聖を呼び出すのにどんな決意がいったのか想像がつく。自分だって人の事は言えないと自重した。
「…で、何でホテルで弓生と鉢合わせになったんだ?まさか、弓生がお前のあとをつけたとかじゃねぇだろう?」
「んなわけ、あるかい!」

聖にしてみれば急に訪れた三吾に心の準備ができておらず、思わず佐穂子とあった経緯は話してしまったものの、その後の状況については皆目わからない。
第一あの時は逆上してわけもわからず部屋に踏み込もうとして思いっきり殴られたし、あれっきり弓生とは会ってもいないし、電話もない。
・・・真実はわからないのだから。
その上、少々落ち込んで佐穂子と映画を観にいって逆に佐穂子に慰められたなんて事は、口が裂けても言えない。
弓生が、ここに戻ってない等考えてもいなかったのだ。いつだって、弓生はどんな事があろうとも自分を待っていてくれた。
三吾たちと出会うまで本家と殆ど接触がなかった聖にとって、ホテルの一室から出てきた弓生の姿を見た時…
このような状況は自分が知らないだけで、ずっとあった事なのだろうかと…能天気に自分だけがのうのうと何も知らずに過ごしてきたのかと。
怒りが過ぎ去った後で、酷く悲しくなった。
何もなかったのかも知れない、あの達彦がそんな事をする筈がない。
そう思っても、あの時醸しだした弓生の色香は人を惑わさずにおられない雰囲気が漂っていた。

(何かあったんだな)
複雑な聖の様子に、今の状況を察した。
なぜ、鉢合わせしたのか…
なぜ、弓生は聖を殴ったのか?
弓生は嫉妬したのではないか?誰に・・・
自分こそが嫉妬しているのだと自覚する。
「あのさ…聖…変な事聞いていいか?」
「なんやねん」きょとんとした聖の顔の前に、言葉が詰まる。
「あっ…あのさ、…お前…弓生…とさ…」
「はっきり、いいなや、わけわからん」少し怒ったようにいう。
「その…千年以上も一緒にいて…なんともない…のか?」
「何がや?」本当に三吾のいわんとすることを理解していないようだった。
(だめだこりゃ…)頭を抱える。
弓生と千年以上も一緒にいて、一度たりと邪な気持ちを抱かなかったとは・・・
だが、目の前の聖にそんな事を聞くこと自体馬鹿なことだと知る。

「ユミちゃん、携帯にも出てくれんのや…」
(三吾には電話したんやな…)
でなければ、次期当主たる三吾がここにいる筈がない。
(大丈夫や、ユミちゃんは必ず帰ってくるさかい…)
佐穂子と会った事がよかったかどうかなんかわからない。でも、佐穂子は大事な仲間や!聖はずっとそう思っている。
でもユミちゃんにはどう映ったんやろな…直情型の自分は、すぐさま考えなしに達彦の事を殴ろうとしたのだけれど。
(それにしてもどないなってんのや、あの達彦は)
うさん臭そうに自分の顔を覗き込む三吾から、気まずげに顔をそらす聖だった。


白い項  熱い吐息  苦しげに震える唇 
    漆黒の髪が目の前で揺れる  どこまでも闇へと誘う瞳…



はっとして、目覚める。
(何だ?…これは…)
達彦はあまりのリアルな夢にびっくりして起き上がる。そして、部屋に掛けてある黒のコートのことを思う。
ーーー文箱の中にしまった壊れた眼鏡ーーー
それの意味する事を考えまいとしていたのに・・・自分の手に視線を落とす。
この手は…あの鬼の肌の感触を覚えている…?
そんな筈がない…私は、あの鬼を嫌いなのだから…
だから、平気で刃を突き刺す事さえできたではないか…あの時は悦びさえ感じた…(悦び?…)
酷く頭の奥が痛んだ…何があったというのだ。
わからない…というより、わかろうとしていないのかもしれない…
しかし、そんな事はどうでもよい事だ。あの鬼達にとって自分は過ぎ去る者でしかない。
だが、ここに在る間は自分から目を逸らすことは許さない。
アレは、神島の物なのだから



「夕御飯にしような…三吾、ユミちゃんお腹すかして帰ってくるかもしれんし…」
元気なくそう言いながらも聖は夕食の準備をし、二人で軽くビールを飲みながら夕食を済ませた。
一応眞巳に連絡を入れる。
遠回しに厭味を言われたような気がするが、今はそんな事を気にする余裕などなかったので、深く考えないことにした。
午前0時を過ぎ、あきらめたように聖が風呂に入っている間ぼんやりとテレビをみていると、電話が鳴った。
ここの電話番号を知っている者など限られている。
(弓生・・・)
躊躇いながらも受話器をとる。
「雷電?」
聞き慣れた声
「それとも、酒呑童子かな?そんな筈はないねぇ。黙っているという事は…」
嫌な予感が過る。
「秋川の次期当主かな?くくくく…」
何かを含んだような笑いに、思わず嫌味の一つも言いそうになる。
「雷電に伝えておいておくれ。コートは預かっているから、取りにくるようにと」
一方的に切られた電話を見つめる。
(なぜ、佐穂子がここにいると思った?)
背筋がヒヤリとする。
「三吾!ユミちゃんからかぁ〜」
聖は余程慌てたのか、濡れた体にタオルを巻きつけたままでリビングにやって来た。
そんな聖を横目で見ながら、落ち着いた声を出す。
「…いや、達彦だった。」
「!」聖の顔色が変わる。
やはり、昨日ホテルで何かあったんだな。
「どういう事だ?」
「何って、別に何もないで…」嘘のつけない性格が、こういう時に災いする。
「弓生のコートを預かってるから、取りに来い…だとさ」
聖は口を噤んだまま、何も言わない。
「着替えてくるわ…」やっと、それだけ言うとバスルームへと消えてゆく。
なぜ、弓生は昨日自分に電話をよこしたのか?
あの震えた声で何を言いたかったのか?

三吾は何かに突き動かされるようにジャンバーを手にとると、聖を待たずに部屋を飛び出していた。
雪が降っているといっていた。
だが、今はその雪の名残さえ微塵もなくなっている。
当てがあるわけではない。でも、弓生が今こうしている間にも一人何を想っているのかと思うと、いても立ってもいられなかったのだ。
(弓生・・・)
アスファルトの上を足早に歩く己の靴音に重なるように、もう一つの靴音が静かに近づいてきた。
ほんの僅かな街灯の光に浮かび上がる、想い人…
 「何をしている」
微塵も動揺を感じさせない、いつもの弓生の声
冴え冴えとしたその双眸、少し乱れた前髪が額にかかり、
…眼鏡が…な、い?
惜しげもなくその怜悧な美貌を曝し…今までどこにいたのか
「お前が、呼んだんだろ、弓生」
目一杯の虚勢をはって、言葉を吐き出す。
自分を見つめる、漆黒の瞳が揺れた。
「……聖はいないのか」
弓生は三吾から視線を逸らし、マンションの部屋を見上げた。
「お前が帰って来ないんじゃないかって、暗い顔してるぜ」
「……」無言のまま、三吾の横を通りすぎようとした腕を、思わず掴んだ。
嫌そうに美しい眉を顰める弓生。
「眼鏡…それも、達彦の所か?」
「…何の話だ」今度は何一つ表情を変えずに言う。
「さっき達彦から電話があったぜ、コートを取りに来いってさ」
「…そうか…」何の感情も読み取れない声色。
「これから取りにいくのか・・・俺も付き合ってやろうか?」
わざと煽る様に言ってやると、弓生は関心が無いとでもいうようにすっと三吾の手を逃れ、マンションの方へ歩いて行く。
「聖が待っている…」
その一言が、三吾の琴線に触れた。
「佐穂子と聖に嫉妬してるんじゃないだろうな!」
(駄目だ…言ってはイケナイ)
「お前は臆病なんだ!」
(これ以上言ってはイケナイ…)
「置いていかれるのが怖いんだ!」

ゆっくりと振り返るその美しい存在に、うっとりと見とれる。
「…お前は…」
唇が言葉を噤む、自分のために…
「置いていくことが出来るのか?…」
「置いてなんか行かない!俺は、お前を…」
「…そういって、お前も、置いていくのだ…私を」
「弓生!」
「…聖が待っている…」
今度こそ二度と振り返ることなく歩き去っていく。
三吾は一人取り残されて、呆然と立ち尽くしていた。
(俺を・・・呼んだろ、弓生?)
急に気力が途切れ、ふらふらと道路脇の縁石に腰を下ろす。
(何やってんだろ、俺…)

            ★
「ユミちゃん!」
躊躇しながらドアを開けた弓生は、飛びつかんばかりに駆け寄ってきた聖に緊張していた体の力を抜き、少し頬をゆるめる。
「三吾と会わんかった?」
「……」
「ユミちゃんのこと心配しとったで」
「お腹すいたやろ、風呂入ってくるとええ、準備しとるさかい」
台所へ消えた聖の背中をぼんやりと見つめ、弓生は上着を脱ぎながら自室へと向かった。
ふと、ベランダに目をやる。
(…三吾…)


どうしようか、このまま知らないふりをして、煙草でも買ってきたと言って戻ろうか?
それともこのまま、神島の家にでも乗り込むか。
弓生と聖の部屋を見上げる。
(畜生…)
やるせない思いで、寒ささえ感じない。
(馬鹿野郎!)
くしゃくしゃになった煙草を取り出し、口にくわえる。


「三吾遅いなぁ、どこまで煙草買いにいったんやろ」
聖は、どこに行ったのか帰ってこない三吾のことを、何気なくそう切り出した。
弓生は何も聞かないし、何も言わない。
昨日のことも、単に過ぎ去った日々の出来事の一つにすぎないと自分に言い聞かせているようだった。
だが、風呂上がりのシャツの襟元にかすかな刻印が見え隠れする。
ジリジリとこみ上げてくる感情を必死に押し止める。
物憂げな様子で、出された食事にゆっくりと箸をつける弓生に何か言おうと・・・だが、一呼吸おいてから精一杯口許に笑みを浮かべた。
「ユミちゃん、悪いけど食べたらそのままにしておいてや。何やユミちゃんの顔見たら安心してもうて、眠うなってきた。」
「……」
決して、食事の片付けを後回しにすることなどない聖である。
怪訝な目で見つめる弓生から逃れるように、
「自分でかたしたらあかんで、ええな」
そう念を押し、聖はわざとらしい欠伸をして自室へと姿をけした。
ドアの閉まる音に、弓生の箸が止まる。


「っくしゅん」
さすがに体の芯まで冷えてきた三吾は、口にくわえたまま火をつけていなかった煙草を握りつぶした。
(どの面下げて、戻ろうか…)
弓生には聖さえいればいいのか…そんな筈がない。
そう確信していたとはいえ、あの頑な姿は痛々しくこれ以上自分の気持ちを押しつけてはいけないのではないか、という思いにとらわれていた。
だが達彦の言葉が耳の奥で何度も繰り返し、繰り返し、三吾の気持ちを煽る。
無機質な携帯の音が闇夜に響いた。
あわてて、ジャンバーのポケットに無造作に突っ込んでいた携帯を手に取る。
だがあまりに焦っていたせいで、無残にも携帯はアスファルトの上に勢いよく落ちてしまった。と、同時に音も止む。
(壊れちまったか?)
アスファルトのほんの小さな窪みの中。
昨日の雪解け水に薄氷が張り鏡のようになったその上に、シルバーグレイの物体が音もなく転がっている。
(弓生からだったのだろうか?)
(聖か?…)
願望と絶望の狭間に揺れ動く己の心のような、音のしなくなったそれを思わず足で踏みつけようとした。

「物を大事にしろと教えられなかったか」
いま、踏みつけようとしたその物体は、白磁の手の中にあった。
「ゆ…みお」
薄手のシャツ一枚で目の前に立つ、儚げな存在を思わず抱きしめていた。
まるで目の前から消えゆくようで、僅かに抵抗を示すその体を更に強く抱き込んで動きを封じる。
「…はなせ…」
「嫌だ」
風呂上がりなのだろう、ほのかな石鹸の香りが鼻孔をくすぐる。
わざわざ自分を迎えに来てくれたという、思っても見なかった夢のような現実に、抱きしめている腕に力が入っても仕方あるまい。
だが弓生の項に唇を寄せた時、そこに仄かな紅い痕跡をみとめ三吾の瞳は焼けつく様な痛みを覚えた。
「……うっ…」
その痕跡を消そうとでもいうように、噛みついた三吾の口許から血が滴り落ちる。
僅かに零れた弓生の声。
だが、弓生は抵抗することなくされるがままになっていた。


              ★
「ええ、天気やぁ〜!」
冬だというのに、外には青空が広がっていて、ベランダに出た聖は大きく腕を広げて気持ちよさそうに空気を吸い込んだ。
「ユミちゃんも、来てみいや。気持ちええでー!」
朝刊に目を通していた弓生は新聞をサイドテーブルの上に置き、聖の後ろ姿を眩しそうに見つめた。
「けど三吾の奴、朝飯も食っていかんと、薄情な奴や〜」
と、ブツブツ言いながら洗濯物を干しはじめた。
聖が朝食を作っている間に、三吾は挨拶もそこそこに帰ってしまったのだ。
弓生は、聖に起こされるまで自室からでて来なかった。


いつ戻って来たのか知っている。
客間の布団に寝た形跡がないのも知っている。
シャワーの音がいつ聴こえてきたかも知っている。
じっと、ベッドの中で息を潜めていた。
三吾が御影に帰ったのではないことも、今どこに向かっているのかも。



「なぁユミちゃん、今日どっか行かへん?」
弓生に背中を向けたまま、聖が明るく問いかけてくる。
「…ああ、そうだな」
弓生が答えると、自分で誘っておきながら聖はびっくりしたように振り返り、口をぽっかりと開け、まじまじと弓生の顔を穴があくほど見つめた。
「ほんま?ユミちゃん」
「ああ…」
すると、余程嬉しいのか満面に笑みを浮かべ、
「…すぐにこれかたしてしまうから、待っててな、一緒に歩こうなぁ」
そう言って、あわてて洗濯物を次々に干してゆく。

柔らかな光をまとう聖の後ろ姿を見ている弓生の瞳には、いつになく優しい色が浮かんでいた。

(…さま…どうか、このまま……)

「ほな、ユミちゃん行こう!」
元気な聖の声が聞こえる。
開け放ったベランダから、春を思わせるような一陣の優しい風が弓生の髪を乱し、耳元で囁く。

  
出会えてよかった、たとえこの先一緒にいられなくてもいつまでも心の中に
    
それに答えるかのように、弓生は僅かに口許に笑を浮かべ、ゆっくりと立ち上がり、歩を進めた。


心ざし 深く染めてし 折れければ
                   消えあへぬ 雪の花と 見ゆらむ




ホワイトニューさまから、「凍結」「邂逅」に続き、三吾篇「氷解」を頂きました。
これにて、三部作、堂々の完結です!
シリアスな大長編になりました。管理人には決して書けない素晴らしいものですね。
ホワイトニューさま、どうもありがとうございました!
次作をお待ちしております(蹴)。