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姫如苑
(川向うの街から 宵闇が来る)
遥か昔に聴いた物悲しい歌の一節を思い出した。
早い夕食を済ませた後の夕暮れのひととき、独りで屋敷の裏手の小高い山の斜面を登ってきた。
子供の頃からここは好きでよく来る。足元に屋敷を見下ろし、その向こうに広がる街と彼方の山々を見渡せるこの場所は、四季折々に様々な野の花の咲く美しい隠れ場所だった。
いつもの場所に腰を下ろした。丈高く繁った姫如苑の小花が肩に髪にさわさわと触れて、薄紫の花弁を散らす。
遥かに煙る山並のすぐ上空には、低く灰紫の雲が垂れ込めている。その雲と山の隙間から突然炯炯と朱赤の光が射し込んだ。
ああ、陽がもう沈むのだ。
ゆっくりと動いて行く雲の合間から射し込む橙色の矢は、遠く近く処を変えながら眼下の風景を照らし出す。鈍色の雲の縁だけが明るく紅色に染まるのに眼を奪われている内に、夕陽の最後の名残が山の端に煌いて消えた。
背後からゆっくりと宵闇が彼方の地平に向かって降りて行く。
眼下の屋敷から明るい子供の声が聞こえてきた。
多分風呂に入る前のひととき、孫息子が朗らかな守り役とヒーロー物のテレビ番組の真似でもして遊んでいるのだろう。
子供のやることなんて、いつの時代も同じだ。
淡々と季節は巡り、時は流れ、子供は成長し新しい世代を育む。
・・・・さわさわと姫如苑が風に揺らいだ。
善き伴侶に恵まれて、平穏な家庭を築いて、それなりに色々と波風はあったけれど幸せに暮らしてきたこの数十年。
それでもこうして夕暮れ時、次第に色濃さを増す夕闇の中にひとり身を置いていると、遂に叶うことのなかった想いが心の底でざわめくような気がする。
人生ももう夕暮れを迎え、これから夜の闇に歩み入って行こうという今になって。
「佐穂子ぉ?」
遠くから呼ばわる声に下方を見透かした。
「ここよ。」
がさがさと草を掻き分けて斜面を登ってきた長身の青年はこちらの姿を認めてにっと笑った。
「なんや、草ん中に埋まって。ちっさい婆さんがこないな夕方にぽつねんとひとりでおったら、悪いもんにかどわかされるで?」
「誰が今更そんなことするもんですか。」
若い娘の頃ならともかく。
それにしても、婆さんの癖にようこないな急なとこのぼってきたなあ、足元悪かったやろ、転がり落ちたら体裁ワルイで、と聖は隣に腰をおろした。
「ちゃんとした道があるのよ。あんたじゃあるまいし。」
そか、ここ来て何年にもなるけど、こないなところがあるなんて知らんかったわ、と眼下の風景を見下ろした聖の横顔を、しみじみと眺める。
はじめて逢ったときと全く変わらぬ明るく端正な若い面立ち。あのときはあまりに人間的なその表情振舞いに却って当惑したけれど。
こうして数十年の時を経てなお寸分変わらぬその姿に、これは紛れもなく異形なのだとふと思う。
永遠の20歳。そしてそれに恋をした幼い自分はこうして年老いて、今、かつてそこから来た暗闇にまた還っていこうとしている。
なんの想いも直接には伝えぬまま。
明るい眸が不意にこちらを見た。
「なんや佐穂子?なんかついとるか?」
いつだってこうしてこのひとは私をはぐらかして来た。
私の想いに気付いているのに。いつだって知っていたのに。
それは決して赦されないことだったから。せめて気付かぬふりをするのがこのひとの心遣いだったから。
そんなことはとうの昔にわかってはいたけれど。
「キスして。」
もういいでしょう、このくらいは?
何十年も言えずに胸に仕舞い込んだ山ほどの言葉のほんの端くらいは?
鬼は明るい眸を一瞬驚いたように瞠り、僅かに痛ましげな顔をして微笑んだ。
「眼ぇ瞑りや?」
いわれるままに眼を瞑った自分の唇に、あたたかな唇が触れて離れた。
(姫如苑に埋もれて くちづけをした)
(私だけが変わり みんなそのまま)
記憶の底に残るうら哀しい旋律が、浮かびあがっては抜けていった。
さわさわと姫如苑が風に揺らいだ。
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