春 宵 上の空で聞いていた給仕の端女の話の中に、耳に留まった言葉があった。 「今何と言ったな?」 「鬼でございますよ、旦那様。」 昨夜内裏にまた鬼が出たそうでございます。 「いや、その後よ。」 昨夜はその鬼に一太刀食らわした剛の者がおりましたそうな。 なれど恐ろしい事でございます。切り付けた途端あたり一面真っ白に光って、切り付けた衛士は瞬く間に黒焦げになりましたとか。 周りの衛士たちがようやく眼が見えるようになったときには、もう鬼は姿を消していたそうでございます。 「そうか。」 溜息をついて箸を置いた。 (昨夜はそう言えば満月であった。) 次第に暮れてきた庭を眺めて想いを巡らす。 とろとろと春の宵らしい、風の凪いだ穏やかな夕暮れである。大気が湿りを帯びて重い。 冷えてくれば夜には霧になろうか。 (いずれ手傷を負うたなら、しばらくは彷徨い出ぬではあろうが。) 手負いとなった鬼が今どこにいるのか。知っているのは都中で多分自分だけである。 ・・・・どこに居るかは知っているが、どうしているかはまだ知らない。 (手負いの獣は気が立って危ないというが、) さて、あの美しい鬼はやはり獣の内にはいるものであろうかな。 しかしこれは様子を見てやらずばなるまい。 ・・・・あるいは喰い殺される羽目になるやもしれぬが、と覚悟を決めた。 日が落ちると暗くなるのは早い。手燭をかかげてもう足元の見えぬ渡殿を歩く。 目指す奥まった一室の外で足を止めた。 閉め切られた板戸の側に手のついていない夕餉の盆が放置されている。 (居らぬのか?) そろそろと静かに戸を引き開けた。 「白鷺や?」 蔀が降ろされた室内は文目も分かぬ暗さである。開いた戸口から射し込む表の薄明かりが闇の中に朧に筋を描く。 「居らぬのか?」心持ち声をひそめて呼びかけながら敷居を跨ぐ。差し入れた手燭の灯りが澱んだ闇を僅かに退かせる。 がらんと調度のない部屋の真ん中に、部屋の主は打ち伏していた。微かに鉄錆のような匂いがした。 「どうしたな?加減が悪いのか?」緊張で声が少し震える。今にもこれが白銀のように輝いて自分に襲い掛かるかも知れないのだ。 しかし、けだるげに頭を擡げた相手は、白い手の甲で眼を覆って手燭の光を避けた。 「眠っておりました。」 「このようなところで眠っては体が冷えよう。加減が悪いなら褥で寝むがよい。」 「大事ありませぬ。」 床に両手をついてようやくに身を起こすその仕種はやはり尋常の様子ではないが、物言いはいつもとそう変わった風でもない。本人が明かす気のないものならば、こちらもあえて尋ねはすまい。 「今宵は何ゆえお渡りになりましたか。」 礼儀正しい口調で尋ねられはたと困る。手傷を負って弱っていると思い取りあえず様子を見に来たが、本人がそれをあくまで悟らせまいと振舞っている以上、自分も気付かぬふりをしてやらねばなるまい。 「碁の相手をしてもらおうと思うてな。」 部屋の隅に置いてあった碁盤に眼を止め、咄嗟に言った。 畏まりました、と言ったもののそれきり打ち坐って動く気配のない相手の前に碁盤を運んで据え、燈台に手燭の灯を移した。部屋の中は閉め切ってあったためか冷え冷えと寒い。これは外の方がまだしも暖かいの、と、戸を開け放してとろりと生ぬるい外気を呼び込む。 盤を挟んで向き合って坐る。流れ込む外気に燈台の灯が揺らぐ。対峙した鬼の光るように白い指が、笥から黒石を一つ取り上げて、つ、と盤に打った。 次第に盤面が埋まって行く。時折自分が長考すると、向かいの相手は疲れたように眼を閉じる。ほの暗い灯火の下で血の気の引いたその面だけが闇から白く浮き上がる。眠ってしまったかなと思うが、こちらが打つと相手は眼を開き、すぐに次を打ってくる。 お前は何故こんなに私に従順なのか。 お前は菅原公の遺恨の鬼だろうに。都の人間など皆憎いのだろうに。 私など気に入らなければ一打ちで始末してしまえるだろうに。 お前のその従順さ、礼儀正しさが、お前の本来の気立てなのだろうか。それが鬼となってもいまだにお前の中には残っているのだろうか。この私にそれを呼び覚ます何かがあるのだろうか。 それともお前は私を脅かさぬよう、ただ元々の己の姿を装っているだけなのだろうか。 「如何なさいました。」訝しげに尋ねられて我に返った。 「おお、もう私の番か。お前は早いの。」 下手でござりますゆえ、考えるとも考えずとも変わりませぬ、と行儀の良い応えが返ってくる。その言葉とは裏腹にこの鬼が相当の打ち手であることはとうに判ってはいるが、いつも何故かこの鬼は巧妙に数目の差で自分に負けるのだ。 (これも腕のうちなのであろうな。) 「これはもう終わりじゃな。」 「左様にござりますな。」もう置くべきところがない、と判断し、活きている目を数える。 またしても自分の2目勝ちである。やれやれ、一度本気で打って欲しいものだと内心思いながら、それぞれに石を寄せて拾い集める。 黒い石を拾っていた白い指が段々に遅くなり、ついに盤上で停まった。いつのまにか戸口から流れ込んだ霧が床を覆い、静かに盤面にまで這い登ってきたのに不意に気付いた。 盤上の升目も寄せた石も、朧に霧に沈もうとしている。 「碁盤は宇宙を顕すのだと師が言った事がございました。」 鬼が妙に静かな声で言った。 ![]() 「そなたの碁の師かな?」この鬼が師の事を口に出すのは初めてだ。とぼけようとしても声が震えるのを抑え切れず、気付かれぬよう祈る。 「学問の師でございます。碁の師でもございました。」善き人でございましたが、とうに身罷りました、と、鬼は面を伏せ、心ここにあらずの口調で言葉を継いだ。 宇宙が碁盤ならば、いつか全てがこうして無に帰するのでございましょうか。 善行も悪行も全てかたちなく寄せ集められて、何もない闇にもどるのでございましょうか。 「そなたはやはり加減が悪いのだ。つきあわせて悪かったの。」そうとしか答えられなかった。 この言葉は自分に向けられたものではない。 今は亡き師に向けて、菅原公に向けての問いかけ。 ・・・・酷い事だ。逃れるみちを与えずに独り苦界に置き去りにするとは。 それでもなおその命に従いあてどなく彷徨うこの者に、自分ごときが一体何をしてやれようか。 「さあ、横になるがよいよ。」と肩を支えて立たせ、褥に導いて横たわらせる。 鬼は素直に従う。もう朦朧としていたと見えて、夜着をかけてやるとそれきり動かなくなった。 (何処に傷を負うたのか見てやれずじまいであったな。) 白い喉元が妙に寒々しく見えて、夜着の襟元を引き上げて顔まですっかり覆ってやる。 「我らそれぞれのうちにそれぞれの宇宙があるのだよ。それゆえ、如何なることがあろうと、己を保ちさえすれば、己自身が無になることはない。」 せめて気休めなりと言ってやれるなら。この者にそれを聞く耳があるならば。 私の言葉はおまえの救いになるだろうか。 夜着の下で、もう眠ったと思った鬼が、くぐもった声で応えた。 「わたくしのうちにはそのようなものはございませぬよ。」 ・・・・・・気休めを受け容れるにはお前は聡明すぎるのだな、憐れな者よ。 憐れみも慰めも全て弾き返して滑り落として。お前はそうして独りきりで何処まで行かねばならぬのだろう。 廊下に出て静かに戸を閉め、溜息をついた。 僅かに欠けた月の光を霧がうつして、春宵の夜気はどこまでも重くほの白い。 |