まあ・・・
この屋敷に人が訪うのは何年ぶりでございましょう。
昔、主が存命でおりました頃は、このような月のよい晩には、琵琶を持ったり瓶子を下げたりしたお客様がよくおいでになったものでございます。
あれから何度花の時期を送ったことか。住むもののなくなった屋敷は荒れ放題、もう昔日の雅な面影はございません。
明日にはこの屋敷は壊され、庭は潰されるとのこと。わたくしも、これが最期とこうして月を眺めに出て参りました。


・・・今宵の月は本当によい月でございますなあ。
このような夜、銀色の月の光を浴びて佇んでおりますと、わたくしはいつも、今生で見た一番美しいものを想いだすのでございます。


わたくしがその者に初めて逢いましたのは、とある秋の夜、ちょうど今宵のような煌煌と月の明るい晩のことでございました。


夜半に独り出かけて行ったきり帰らぬ主を案じておりましたわたくしの耳に、聞きなれた主の足音が嬉しく響きましたのはとうに丑三つ刻を過ぎた頃でございました。
しかし足音は一つではございませんでした。主の足音に重なってひたひたと密やかなもう一つの足取り。
今時分にお客様をお連れでお帰りとは・・・?
怪しみながらお迎えに出たわたくしが見ましたものは、主の後ろにひっそりと従う、異様に丈高い黒衣の鬼でございました。


「起きて待っていたのかな、蜜虫や。」
常と変わらぬ平静で優しい口調の主。しかしわたくしはその者の放つ烈しい気に打たれ、恐ろしさに竦んで口もきけぬほどでございました。
主の周囲には日頃より常に異形の気配がいたします。主の身の回りのお世話をするこのわたくし、大概のあやかしには恐れなど感じませぬのに・・・
なぜ主はこのように恐ろしい者を連れ帰ったのでございましょう?
主の考えを計り兼ねてわたくしは後先も考えずに身を隠したのでございます。
・・・それがわたくしとあの鬼との初めての出会いでございました。


主はその日から、鬼を従者にいたしました。
あの夜わたくしを竦み上がらせた強い異形の気を巧みに隠し、鬼は主に誠実に仕えました。
陽の高いうちは屋敷の奥にて静かに過ごし、時折は文の使いなどをつとめ、主の夜の外出には牛車に従って供をいたしました。
今でもこうして眼を閉じると、牛車の傍らについて門口を出てゆくあの鬼の姿が瞼の裏に浮かびます。
闇色の髪を肩におろし、白い額に一筋月の光を流したあの丈高い姿が。


わたくしはいつもその鬼を見ると姿を隠しました。
最初は怯えから、やがては別の想いから。
鬼はわたくしの振る舞いを気にしていないようでございました。
ええ、わたくしそのものを気にかけていなかったのかもしれませぬ。
主以外の何者も眼に入ってはいなかったのかもしれませぬ。
密やかに主の懐に守られて過ごす。
わたくしども主に仕える者は、皆その境遇に満足しておりました。
そしてあの鬼もたぶんそうだったのでございましょう。
わたくしの無礼な振る舞いにも気づかぬほどに。


幾度か花の時を迎えては送り、鬼が元からここにいたかのように屋敷の空気に溶け込んだ頃、主のもとに今一人の鬼が参りました。


打って変わって騒々しい年若い鬼は、ひっそりと過ごしていた先住の鬼の日常を悉く掻き乱しました。
泣き、笑い、怒り、悲しみ。それまで感情の欠片も見せなかった年嵩の鬼が、引きずられるようにして怒ったり嘆いたりしますのを、わたくしは胸の焼けつくような思いで眺めました。
ああ、あれがわたくしのためならば。
怒るのでもよい、悲しむのでもよい、あの心の片隅にでも置いてもらえるならば、なんであろうとわたくしはこの身さえ投げ出したでしょうに。
なれどあの鬼はわたくしが居ることさえ気づいてはおらぬのかも知れませぬ。
隠れて見つめているばかりの女のことなど。


・・・主は先見の力を密かに苦にしておりました。
見ることができるだけで、見たものを変える力を持たぬ、と。
とある夏の夜、縁に座して蛍を眺めわたくしの酌で酒を呑みながら主が酔って嘆くように言った言葉を、わたくしは今でも憶えております。
「お前たちの行く末が見える。」と。
あのとき主の眼には何が映っていたのでございましょう。
・・・それを尋ねることは、しかし僕たるわたくしには思いもつかぬことでございました。


その日、主は宵の口に、珍しく鬼たちを二人一緒に使いに出しました。
書状を持たせて、ご子息吉平さまのお屋敷へ。
たかだか書状一通届けるのに何故鬼を二人揃えて遣わすのだろう?
わたくしでさえ怪訝に思いました。鬼二人も解せない面持ちで、しかし素直に出かけてゆきました。
あのとき、あのものたちが主の真意を問うたなら、あるいは何かが違っていたのでしょうか。
鬼たちが出かけて行った後、主はわたくしにねぎらいの言葉を与え、身を隠しているように命じました・・・


夜の訪れとともに屋敷を襲った一陣の妖気。
主の命に背くこともできずわたくしはひたすら庭で気配を殺し、怯え切って震えながら鬼たちが戻るのを心待ちにしておりました。
主が書物をめくる音、密やかな話し声、几帳の倒れる音・・・そして何かが空を切る音がして。
やがて湿りを帯びた夜気に紛れて漂ってきた血の匂い。
二人の鬼が血相を変えて戻ってきたのはそれから暫くしてでございました。
廊下を激しく走る音、立ちすくみ息を呑む気配、そして言い様のない悲痛な叫び。
常に物静かだったあの鬼が、銀色の光を放って闇を切り裂くように門口を走り出て行くのを、わたくしは信じられない思いで見送ったのでございました。


それから後何があったのかは良くは存じませぬ。
翌日若い鬼に連れられて帰って来たあの鬼は、魂の抜けたようなありさまでございました。
見もせず、聞きもせず、動きもしない。
・・・若い鬼が必死であれの魂を呼び戻そうとするのを、わたくしは意外な驚きをもって眺めました。
いつも小言を言われ口答えをして諍い、主に諌められたり宥めらたりしていた仲でありましたのに。およそ仲睦まじいとはいえない間柄でございましたのに。
しかし、若い鬼は、主が呼んだのとそっくりの優しい口調であれの名を呼んでしきりに語り掛けておりました。
「高遠」と。


主の式は全て解き放たれ、屋敷に残るはわたくしと鬼二人のみでございましたが、わたくしはもう誰に仕える気もせず、主に名を与えられる前のぼんやりと虚ろなわたくしだけの世界に戻り、うつらうつらとまどろむことが多くなっておりました。
それでもたまに縁先に出てくるあの鬼を目にするたび、わたくしの心は現世に引き戻され波立ちました。
今日こそは魂が戻ったのだろうか。あの眼にわたくしは映るのだろうか。
あの眼に光が戻ったなら、今度こそ逃げ隠れせずにわたくしもその足元に跪いてあの優しい名を呼ぼう。
そしてこの想いのたけを打ち明けて今までの非礼を詫びてしまおう。
かつて主だけを映していたあの眼ではございますが、主亡き今ならばわたくしの姿も映るかも知れませぬ。


されどわたくしの秘めた決心も虚しく、あの鬼がわたくしの姿を認めることは二度とございませんでした・・・


そしてある夜、もう一人の若い鬼に手を引かれて、あの鬼は屋敷を出てゆきました。
わたくしはそれを門口に佇んで見送りました。
何に心を残したのか、残す心がまだあったのか、振り返り振り返り手を引かれてゆく丈高いその姿は主に連れられて来た其の時のまま。しかしその気のなんと言う変りようでございましたでしょう。
主を失い抜け殻になったわたくしの美しい異形・・・
その後あの者の姿を見ることはございませんでした。


明日は切られるこの身なれば、こうして最期に話を聞いてくださる方にめぐり合えたのは望外の幸せでございます。
闇色の髪と眸をした丈高い白皙の鬼。
わたくしはもう二度とあの者と逢うことは叶わぬのでございます。
今もどこかの空の下で、わたくしとおなじあの月を眺めて主を偲んでおりますでしょうか。それともとうに主を追って逝きましたでしょうか・・・
もう一度逢いたかった。せめて一言、わたくしのこの想いを伝えたかった。
・・・なれど、すべての花が実を結ぶわけではございませぬ。


もしあの鬼にどこかでお会いになることがございましたら、どうかお伝えくださいませ。
蜜虫はそなたに懸想しておった、と。




・・・かく、藤の古木は語った。