雨が降り出したのは出発して小半刻歩いた頃だった。
主が殺されて早数月、殺害者と目された芦屋道満は館に火を放って自害し、事件は既に過去のものとなろうとしている。
他のものにとっては。
屋敷に仕えていた主の式たちはすべて解き放たれた。最後まで残って留守を護っていた自分達二人も、跡を継いだ吉平に命ぜられ、今都を離れ身を隠す旅の途上にある。
僅か数年とはいえ暖かく保護され慈しまれた記憶の染み付いた主の屋敷を離れるのは名残惜しくうら悲しかった。
まるで大きな人形のように自分から動くことのなくなってしまった連れの手を引いて、夜陰に紛れて出立し、目立たぬように京の町を抜けて今主家の用意した山里の隠れ家に向かっているのである。


もとから歩くことを好まない高遠のこと、手を引けば機械的については来るものの、その歩みは重く覚束ない。自分一人なら二日で歩く道程を、もう三日もかかってまだ漸く半ばを過ぎたくらいのところである。
それでも初めの一日、しきりに振り返り、後に残してきた主の屋敷の方を気にするかのそぶりを見せていた高遠が、その後は素直に自分についてくるのがせめてものこと。あの状態が続いていたら、まだまだ時間がかかっていたことだろう。
とは思いながら、心は重い。道満を討ち損じて以来、何一つ感情を示さなくなった高遠が久々に見せた心の動き。それを、道程を急ぐあまり無造作に踏み付けにしたような後ろめたさを感じる。
山道に入ってからは特に進みが遅くなった。足元の悪い道を、まるで無関心に何も見ないで歩く高遠は始終躓いて転ぶ。その度に引き起こし傷があれば泥を拭ってやり…
(ああ、まるで赤ん坊抱えた親になった気分や。)
100歳も年上の赤ん坊。自分で考えたことながら頭痛を覚えたところにこの雨である。


今朝、一夜を過ごした狩小屋から出たときから、既に雲行きが怪しかった。今時分の雨は当たりは柔らかくても後々躰を冷やす。雨具もなにも持たない身一つの旅、野外生活に慣れた自分はともかく、高遠に風邪を引かせると余計世話が焼けて面倒だ。
「何処か雨宿りできるところを探してくるさかい、ちょっとここで待っとりや?」
取りあえず大きな杉の根方に高遠を坐らせる。幹に凭れて大人しく坐った連れを些かの不安を持って眺めやり、ええか、絶対ここから動いたらあかんで、と、無駄とは思いながら言い聞かせる。聞いてるのか聞いていないのかもわからない無反応な相手に溜息をつき、まあ、これだけ無気力なら自分から動き回ることもないやろ、と、いいのやら悪いのやらわからない現状を取りあえず肯定してその場を離れた。


暫く先に炭焼きの小屋の残骸を見つけて、とにかくここまで連れてこよう、と道を戻る。
見憶えた大きな杉。
どきん、と心臓が大きく打った。
根方にいたはずの連れがいない。
あれだけの大木や、きっと影に隠れて見えんのや、と不安に騒ぐ心を無理に押さえて小走りに走り寄る。
誰もいない。
俺としたことが、木を間違えたんや、あかんあかん、と周囲を見渡す。
どうみてもさっき高遠を置いていったのはここだ。
(何でや?!)
この三日間、進んで動くことの無かった高遠がなぜ?
転んでも自分から起きることさえしなかった高遠がなぜ?
(もしかして、屋敷に戻ろうと…・?)
頑是無い童に戻ったような高遠のこと、手を引くものがいなくなったことに気付いたとき、己の帰りたいところに向かって歩み出したのではないか?
雨宿り場所を探しに行っていたのはそう長い時間ではない。高遠の足ならそう遠くへは行っていないはずだ、と 来た道を戻る。糸を引くような静かな雨が衣に染みとおる。


泥だらけの道を随分戻ったが、高遠は見つからなかった。
途方に暮れて最初の杉の根方に戻る。
(じいさん、どないしよ。)
目を離さずに護ってやれと言われたのに、俺が必ず護ってやると主に誓ったのに、はやくもはぐれてしまった。この手を放してしまった。
草臥れて、先刻高遠を坐らせたその場所に坐り、高遠が凭れたのと同じように幹に凭れる。
休むことなく歩きつづけた自分の足音が途絶えた。急ぎ足と不安に乱れた呼吸が次第に静まった。
聞こえるのはかそけき雨音と・・・・鳥の声。
低くぎこちない囀りに、まだ鶯も修行中やな、とこんなときではあるけれどふと笑みがこぼれる。高遠もさっき自分が去った後、こうしてここに一人静かに坐してこれを聴いたのか。
その姿が目の裡に浮かぶ。端座して春雨に煙る森を眺めるともなく眺めている高遠。不意に耳に入った鶯の声。ゆっくりと立ち上がって・・・・
いつの間にか足が勝手に立ち上がった。鳥の声のする方向へ静かに足音を忍ばせて歩く。僅かに下りの斜面、ほの暗い木立を抜けてふっと明るく開けた窪地に、長身を丸めて蹲る見慣れた姿があった。


ほうっと思わず大きく息をつく。駆け寄って肩を掴む。
「高遠!心配したんやで。動いたらあかんてあれほど言うたやないか?」
周囲で囀っていた鳥がぴたりと鳴き止んだ。
高遠が一瞬ひどく悲しげな顔をしたのにはっとした。
(お前、ここが気に入ったんか?)
まるで感情の動きを見せなかった高遠に悲しい顔をさせる何がここにあったのか咄嗟にはわからずとも、無理矢理引っ張り出してはならないと感じ、地べたに坐った高遠の隣に寄り添って膝を抱えて坐ってみる。


静かな雨が額を濡らし頬を伝う。濡れた土の香が立ち昇り身を包む。
鶯がまたひとつ二つと気ままに鳴き始め、杉の枝から時折滴る雫に、下生えの笹が揺れる。


ああ、この穏やかな時間。
身も心も丸ごと穏やかに包み込むようなこの優しい雨は、主を想い出させる。
つらいことも苦しいことも、全て忘れて身を委ねられるような柔らかな慈雨。
(そか、じいさんを想い出したんか。)
人の世の争い、怨み、悔い、すべての苦悩から庇い護ってくれた優しいひと。
あの懐に庇護されて居心地よく丸まっていた自分達二人、この窪地に今身を寄せ合ってこうしていると、まるであの忌まわしい日から後の悲しみも憤りもすっぽりと欠落して、またあのひとの元に戻ったような錯覚さえおぼえる。
(そやなあ、ここはじいさんの懐や。)
還らぬひとを今なお慕って殻に篭る相方を憐れに思いながらも、自分もつい引き摺られそうになるこの安堵感。しばらくこうしていよか、と高遠の肩を抱いた・・・・


・・・・・・人のうからのなべて絶え果つるとも
     小鳥も草木も、これに心掛くることあるまじ



静かな口調に我に返った。水滴に曇る窓硝子の外の町並みはほの暗く春雨に煙っている。
あの日と同じ、優しい雨の降りしきる物憂い春の宵。
「何や、ユミちゃん?誰の言葉や?」
さあ、何で読んだのだったかな、雨で想い出した、と気だるげにソファに沈んだ相棒が答える。
「お前こそ、何を考え込んでいた?」
「俺かて、雨で想い出すことくらいあるんやで?」とちょっと拗ねた口調で返す。

・・・人の世が争い滅びても、それにかかわりの無い世界がここにある・・・

あの日あの窪地で高遠の肩を抱いて自分が朧に感じたのと同じことを、今弓生が口の端に上せたのは偶然だろうか?
あの時期のことは何も憶えていないはずの弓生であるけれど、それでも何か記憶の端に留まる風景があるのだろうか?
ああ、でも、あの頃のことはもう想い出したくない、想い出させたくない。
生暖かく纏わりつくような雨の気配を振り払い、努めて明るい声を出す。
「コーヒーでもいれよか、ユミちゃん。」
ああ、いいな、と手元の雑誌を再び広げた相棒の姿にほっとして台所に向かう。


主よ、あなたの庇護はもう必要ないのです。
・・・・・彼にはこの自分がついているのだから。